サード編:MLB歴代の守備の名手たち


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2年前に各年代を代表する剛速球投手たちを取り上げましたが、今年は各ポジションの守備の名手たちを同じような形で、ベストと考える選手+他に候補に挙がった選手たちを取り上げていきたいと思います。

ショートから初めにやるつもりだったのですが、守備の最重要ポジションであるがために選手を絞り込む作業に思ったほど時間が掛かりそうなので、まず手始めにサードからやっていこうかと。

サードと言えば、一時期はバント処理の重要性からセカンド以上に守備力を要求されていたものの、スモールベースボールの衰退によって守備力の軽視が進み続々と打撃型プレーヤーが増え、野球の長い歴史の中で要求水準が最も大きく変化したポジション。

もちろん今も昔も内野守備ではショートが最も重要視され、ショートで通用しなかった選手がセカンドやサードに振り分けられる風潮に変わりはなく、本記事の中で取り上げた選手よりも上位のサード守備力を有するショート(※時代によってはセカンドも)がいたことは間違いありませんが、今回のサード編は同ポジションをメインにプレーした選手のみを対象としました。

また、控えの守備固めやマイナーリーグ、独立リーグ、アマチュアの中には守備力だけであればレギュラー選手より優れた選手もいたでしょうが、流石にそういった選手まで取り上げ始めたらキリが無いので、レギュラーとしてMLBに定着した選手から選出しています。

加えて、選手の現役時代を実際に見た第三者からのイメージと守備成績の乖離の問題もありますが、できるだけ両方を鑑みたつもり。




1870年代

ボブ・ファーガソン

Bob Ferguson : 1874年~1884年
通算守備防御点 39 ReferenceFanGraphs

プロ野球リーグ誕生前の1860年代からプロリーグ黎明期の1970年代にかけて球界を代表するサードとして活躍し、選手としてだけでなくキャプテン・監督・審判・アメリカン・アソシエーション会長など様々な役職を勤めた万能人。

史上初のスイッチヒッターとして歴史に名を残していますが、武器はバッティングではなくサード守備であり、その守備力の高さからヘンリー・チャドウィックは「1860年代後半から1970年代前半の最高のサード」と評しています。

また、長年に渡り監督を務めたものの優れた成績を残すことはできませんでしたが守備への造詣は深く、プルヒッターに対する極端な左右寄りシフトを採用した史上初の監督の1人でもありました。

1880年代

エド・ウィリアムソン

Ed Williamson: 1878年~1890年
通算守備防御点 87 ReferenceFanGraphs

1880年代に絶対王者として君臨したシカゴ・ホワイトストッキングス(後のカブス)にて、同チームのウリだった伝説的な”ストーンウォール内野陣”の一員として活躍。

サードとショートで合わせて補殺数にて7回、併殺数にてにて6回、守備率にて5回、RF(レンジファクター)にて4回リーグトップに輝き、当時の数多くの識者から最高のサード守備の持ち主と認められ、チームメイトであったキャップ・アンソンに至っては史上最高のオールラウンドプレーヤーと称しています。

さらに、1888年に行われた遠投コンテストでは399フィート11インチ(約122m)の大投擲を見せ優勝を収めており、当時の球界で最も強肩の1人であったことは間違いありません。

また、1883年に新設されたホーム球場レイクフロスト・パークの左翼が180フィート(約55m)しかなかったため、1884年シーズンに27本塁打を記録(アウェイでの本塁打はうち2本だけ)していますが、これはベーブ・ルースが更新するまで非公式のMLB記録となっていました。

他の候補選手

ジェリー・デニー

Jerry Denny : 1887年~1907年
通算守備防御点 44: ReferenceFanGraphs

1880年代前半におけるサード守備No.1は上記のウィリアムソンですが、5年連続RFリーグトップとなったデニーが後半におけるベストであったことは間違いないでしょう。

世にも珍しい両投げであったためか送球に難がありエラーも少なくはありませんでしたが圧倒的な補殺数を誇り、全盛期の短期的な期間における守備力だけであればウィリアムソンを上回っていたかもしれません。

また、キャリア途中に守備グローブが導入されたにも拘わらず素手のプレーにこだわりをもっており、素手でプレーしたMLB最後の選手だったと言われています。

1890年代

レーブ・クロス

Lave Cross : 1887年~1907年
通算守備防御点 95 ReferenceFanGraphs

キャッチャーとしてデビューし好守を披露するも故障やポジション争いを理由に5年目からセカンド、サード、ショート、サードをたらい回しにされましたが、8年目の1894年にとうとうサードへ固定されると翌年から引退まで守備率にて5度のリーグトップに輝き、41歳までサードとして現役を続けました。

ちなみに、通算守備防御点は19世紀のサードの中で最高の数字。

他の候補選手

ビリー・クリングマン

Billy Clingman : 1890年~1903年
通算守備防御点 43: ReferenceFanGraphs

MLB定着が遅かっただけでなく衰えも早かったためプレー期間は限られましたが、パイレーツの実質的前身チームであるルイビル・コロネルズにてサード/ショートとしてプレーすると、チームメイトの若きホーナス・ワグナーを他ポジションに追いやるほどの守備力を発揮。

「私のことをクレイジーだと思うだろうが、バッティングの90%は運だと考えている。守備とピッチャーがもっと評価されるべきだ。」と述べるなど如何にも守備職人といった感じ。

1900年代

ジミー・コリンズ

Jimmy Collins: 1895年~1908年
通算守備防御点 121 ReferenceFanGraphs

現役当時からエディー・マシューズの台頭まで長らく数多くの選手や球界関係者、ファン、記者から歴代最高のサードとして称され、サードとして史上初めて殿堂入りを果たした名選手。

サードの打撃力が軽視されていたデッドボール時代において同ポジション最上級の打撃成績の残していますが、最も称賛された彼のツールはバッティングではなくサード守備でした。

特に”前進→ワンハンドスロー”の発明などバント処理・前進守備において革命を起こすなど、それまでショートやセカンドと比べ限定的だったサードの守備的役割を増やし、現代的なサード守備を確立した選手だと称されています。

他の候補選手

リー・タネヒル

Lee Tannehill : 1903年~1912年
通算守備防御点 113 ReferenceFanGraphs

メインポジションはサードですがチーム状況によってショートを守りその両方でトップクラスを披露した守備職人。サードはおろか内野全ポジションでも1900年代最上位に入る守備成績を残しています。

ただ、1912年シーズンの序盤にウォルター・ジョンソンの剛速球を腕に受け骨折。離脱中に同じく名手と呼ばれたバッキー・ウィーバー(後のブラックソックス事件にて永久追放に)にポジションを奪われると、最終的にはマイナーリーグ球団にトレードされMLB復帰を果たすことはできませんでした。

1910年代

ヘイニー・グロー

Heinie Groh: 1912年~1927年
通算守備防御点 35 ReferenceFanGraphs

ボトルバット」と呼ばれる特殊な形状をしたバットと独特なバッティングフォームから打撃面を語られることが多い選手ですが、9シーズンに渡り守備率リーグ2位以内に入るなど精密なサード守備を持ち合わせた名手。

キャリア終盤には待遇面でレッズと揉めジャイアンツに移籍するとジョージ・ケリー(ファースト)、フランキー・フリッシュ(セカンド)、デイブ・バンクロフト(ショート)らと共に史上最高級の超鉄壁内野陣を形成。

他の候補選手

オジー・ヴィット

Ossie Vitt: 1912年~1921年
通算守備防御点 38 ReferenceFanGraphs

1910年代はサードのディフェンシブ・スターに欠けヘイニー・グロー以外に”これだ!”といった選手が正直いないのですが、高精度なハンドリングと送球を持ち合わせていたと言われるヴィットをディケイドのセカンド・ベストに選びました。

MLB時代にレギュラーとしてフルシーズンのプレーはたった4シーズンしかありませんでしたが、RFと守備率の両方で3度リーグトップに。1916年には守備WARでもリーグ最高の数字を残しています。

ビル・フランシス

Bill Francis: 1906年~1925年
通算守備防御点 61.5 : ReferenceSeamheads

ニグロリーグ前期において最高のサード守備を誇った選手は、同リーグ内にて抜けた守備成績を残し40歳を超えてもトップクラスのパフォーマンスを見せた鉄人フランシスであったと考えるのが自然でしょう。

ちなみに、メジャーリーグとして新しく認定されたニグロリーグはフランシスが現役晩年に所属したリーグのみであるため、今後フランシスの守備成績がメジャーリーグ記録に大きく絡むことはありません。

1920年代

ウィリー・カム

Willie Kamm: 1923年~1935年
通算守備防御点 50 ReferenceFanGraphs

MLB入り前はPCL(パシフィック・コースト・リーグ)にて攻守のサードとして鳴らし、ロジャー・ホーンスビーやジョージ・シスラー、上記のオジー・ヴィットなどが一目見て称賛するほどの逸材で、1922年にはマイナーリーガーの移籍金としては史上最高額となる10万ドル+他3選手とのトレードでホワイトソックスに入団。

PCLよりハイレベルなMLBで平均レベルの打撃成績に収まったものの守備率にて8回、刺殺数にて7回、補殺数にて4回、RFにて2回リーグトップに立つなど最高級のサード守備力を遺憾なく発揮。

しかしながら、1931年に監督との対立を理由にインディアンスへトレードされると、1933年から同チームの監督に就任したウォルター・ジョンソンとも対立。ジョンソンはカムだけでなく多くの選手から反感を買っていたのですが、反ジョンソン派閥の中心となっていたカムは1935年シーズン序盤にチームを退団。

その後カムがMLBでプレーすることはありませんでしたが、1934年シーズンもトップクラスの守備成績を残しており、このインシデントが無ければ更に数字を伸ばしていたことでしょう。

他の候補選手

パイ・トレーナー

Pie Traynor: 1920年~1937年
通算守備防御点 -32 ReferenceFanGraphs

上記1900年代ベストのジミー・コリンズと並び史上最も偉大なサードと長らく考えられていたスーパースターであり、コリンズと同様に攻守において最上級の評価を受けたオールラウンダー。

マイナーリーグ時代及びMLBデビュー直後はショートを守っていましたが、不安定なショート守備に改善の兆しが見られなかったためサードにコンバートされると、その後は補殺数にて7回、補殺数にて3回リーグトップに立つなど長期間に渡り好守で安定した成績を記録。

ただ、現代の尺度で測ると打撃及び守備が特段優れていたわけではなく、特に守備防御点は大きくマイナスであるため、当時の評価が過大評価だった可能性は否定できません。

ジュディ・ジョンソン

Judy Johnson: 1918年~1936年
通算守備防御点 74.0 : ReferenceSeamheads

1920年代のニグロリーグはオリバー・マーセルデイブ・マラーチャーなどサードの名手の宝庫だったわけですが、リーグ最高のサード守備と野球IQ、温厚かつ紳士的な性格を兼ね備え、ニグロリーグのニ三遊の選手として初めて殿堂入りを果たしたジョンソンがウィリー・カム最大のライバルと言えるのではないでしょうか。

とは言え、マーセルやマラーチャーと同様に打撃成績はニグロリーグ平均レベルの数字であり、本当に殿堂入りに相応しい選手であったかは微妙。

1930年代

オジー・ブルージュ

Ossie Bluege: 1922年~1939年
通算守備防御点 73 ReferenceFanGraphs

極端な前進守備がトレードマークだったものの場面によって立ち位置を大きく変えるクレバーさも兼ね備え、華麗なサード守備は長年に渡りワシントンの野球ファンから人気を博しました。

引退後もセネターズのコーチ、監督、育成スタッフ、スカウト、事務職員を歴任し半世紀にも渡って同チームの下で働き、ハーモン・キルブリューをスカウトしたことで再び日の目を浴びています。

全盛期は1920年台終盤ですが、1930年代の方が出場試合数が多いためこちらで選出。

1940年代

レイ・ダンドリッジ

Ray Dandridge: 1933年~1953年
通算守備防御点 1.5 : ReferenceSeamheads

前述のジョンソン、マーセル、マラーチャー時代以降におけるニグロリーグ最高のサードと称され、その3人とは対照的にサード守備だけでなくバッティングも一級品だった殿堂入りプレーヤー。

現役晩年にカラーバリアが撤廃され35歳から4年間ジャイアン傘下AAAでプレー。攻守で好成績を残しMVPに選ばれたシーズンもありましたが、年齢的に伸び代が無いダンドリッジをジャイアンツが昇格させることはありませんでした。

他の候補選手

ケン・ケルトナー

Ken Keltner: 1937年~1950年
通算守備防御点 60 ReferenceFanGraphs

各守備指標で幾度となくリーグトップになった守備の名手ですが、1941年のヤンキース戦で56試合連続安打記録を継続中だったジョー・ディマジオに対し好プレーを連発して記録をストップさせたことで歴史に名を残しています。

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