レフティー・グローブ、ウォーレン・スパーン、スティーブン・カールトン、ランディ・ジョンソン、クレイトン・カーショウら数多のレジェンドを抑え「史上最高の左腕」と評されことも多いサンディー・コーファックス。
そのコーファックスと言えば下の成績表のように1962年・26歳で突如覚醒&大ブレイクを果たし、肘・肩の痛みから絶頂期の30歳で引退したことで有名ですよね。
Year | Age | Tm | W | L | ERA | G | GS | IP | BB | SO | ERA+ | FIP | WHIP | BB9 | SO9 | SO/W |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955 | 19 | BRO | 2 | 2 | 3.02 | 12 | 5 | 41.2 | 28 | 30 | 136 | 3.64 | 1.464 | 6.0 | 6.5 | 1.07 |
1956 | 20 | BRO | 2 | 4 | 4.91 | 16 | 10 | 58.2 | 29 | 30 | 82 | 5.05 | 1.619 | 4.4 | 4.6 | 1.03 |
1957 | 21 | BRO | 5 | 4 | 3.88 | 34 | 13 | 104.1 | 51 | 122 | 106 | 3.39 | 1.284 | 4.4 | 10.5 | 2.39 |
1958 | 22 | LAD | 11 | 11 | 4.48 | 40 | 26 | 158.2 | 105 | 131 | 93 | 4.38 | 1.494 | 6.0 | 7.4 | 1.25 |
1959 | 23 | LAD | 8 | 6 | 4.05 | 35 | 23 | 153.1 | 92 | 173 | 105 | 4.04 | 1.487 | 5.4 | 10.2 | 1.88 |
1960 | 24 | LAD | 8 | 13 | 3.91 | 37 | 26 | 175.0 | 100 | 197 | 101 | 3.49 | 1.331 | 5.1 | 10.1 | 1.97 |
1961 | 25 | LAD | 18 | 13 | 3.52 | 42 | 35 | 255.2 | 96 | 269 | 122 | 3.00 | 1.205 | 3.4 | 9.5 | 2.80 |
1962 | 26 | LAD | 14 | 7 | 2.54 | 28 | 26 | 184.1 | 57 | 216 | 143 | 2.15 | 1.036 | 2.8 | 10.5 | 3.79 |
1963 | 27 | LAD | 25 | 5 | 1.88 | 40 | 40 | 311.0 | 58 | 306 | 159 | 1.85 | 0.875 | 1.7 | 8.9 | 5.28 |
1964 | 28 | LAD | 19 | 5 | 1.74 | 29 | 28 | 223.0 | 53 | 223 | 186 | 2.08 | 0.928 | 2.1 | 9.0 | 4.21 |
1965 | 29 | LAD | 26 | 8 | 2.04 | 43 | 41 | 335.2 | 71 | 382 | 160 | 1.93 | 0.855 | 1.9 | 10.2 | 5.38 |
1966 | 30 | LAD | 27 | 9 | 1.73 | 41 | 41 | 323.0 | 77 | 317 | 190 | 2.07 | 0.985 | 2.1 | 8.8 | 4.12 |
12 Y | 12 Y | 12 Y | 165 | 87 | 2.76 | 397 | 314 | 2324.1 | 817 | 2396 | 131 | 2.69 | 1.106 | 3.2 | 9.3 | 2.93 |
そして、このコーファックスの大ブレイクの要因として挙げられるファクターが3つあります。
まず1つ目は投球スタイルの変化。
球界最高クラスの剛速球を誇りながらも制球難に苦しんでいたコーファックスですが、1961年の春季キャンプにおいてバスでの移動中に隣席に座った控え捕手のノーム・シェリーから「もっとリラックスして投げるように」とアドバイスを受けると、コーファックスはそのアドバイスをすんなりと受け入れ制球力が向上。
間違いなく3つ要因の中でも最も有名なものであり、今でも投手育成において引用されることの多いエピソード。
次に2つ目はストライクゾーンの拡大。
1961年のロジャー・マリスによるシーズン本塁打記録樹立などを要因にMLBは1963年シーズンからストライクゾーンを「脇の下~膝上」→「肩の上~膝」まで上下に拡大。これによって下表のように平均防御率は0.5点前後も下落し投高打低時代がスタート。
年度 | 平均防御率 | 平均奪三振率 | 平均OPS |
1958 | 3.86 | 5.0 | .719 |
1959 | 3.90 | 5.1 | .716 |
1960 | 3.82 | 5.2 | .712 |
1961 | 4.03 | 5.3 | .727 |
1962 | 3.96 | 5.5 | .719 |
ストライクゾーン拡大 | |||
1963 | 3.46 | 5.8 | .681 |
1964 | 3.58 | 5.9 | .690 |
1965 | 3.50 | 5.9 | .683 |
1966 | 3.52 | 5.8 | .686 |
(当時はまだDH制が導入されていないため、ALとNLのリーグ平均成績にほとんど差が無いため、MLB平均成績を記しています。)
もちろんストライクゾーン拡大の恩恵をコーファックスだけが受けたわけではありませんが、高めへのスピンの効いたノビのあるフォーシームが売りのコーファックスにとってストライクゾーンの拡大は他選手よりも大きなプラスに働いた可能性も。
そして3つ目がドジャー・スタジアムの開場。
今回の記事ではこの要因に着目してコーファックスの成績変化の考察を行いたいと思います。
メモリアム・コロシアムからドジャー・スタジアムへ
1958年にブルックリンからロサンゼルスへ移転したドジャースが1961年まで本拠地として利用したのが上の写真の「ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム(以下メモリアル・コロシアム)」。
元々はアメリカンフットボール及び1930年のロサンゼルス・オリンピックのために1921年~1923年に建造されたスタジアムであり、ロサンゼルス移転後の新球場(ドジャー・スタジアム)建造がロサンゼルス市の反対によって遅れたためドジャースが急遽仮として本拠地を据えることとなった全く野球に適しない構造。
上の写真からも分かるようにアメリカンフットボールのフィールド(及び陸上のトラック)内に無理やり野球場を押し込んだため、レフトポールまでがたった76.5m(251フィート)、左中間が97.5m(320フィート)、センターまでが128m(420フィート)、右中間が115.8m(380フィート)、ライトポールまでが91.4m(300フィート)というとてつもなくいびつなフィールド形状に。
もちろんこの形状は打高投低へとつながり得点PFはセントルイス・カージナルスのブッシュ・スタジアムに次ぐ数字を記録していました。
しかし、メモリアム・コロシアム移転後のロサンゼルス市の住民投票により新球場建造の許可を得たドジャースは、現在まで長らく使用されることとなるドジャー・スタジアムを1962年に新たに開場。
ただ、このドジャー・スタジアムはメモリアム・コロシアムと対照的にフィールドが広く投手有利のピッチャーズ・パークに。サンディー・コーファックスの現役時代にはMLB最低の得点PFを叩き出し、今でも投手有利の球場として広く知らていますね。
メモリアム・コロシアムとドジャー・スタジアムの得点PF
(Baseball-ReferenceのPitchers’ Park Factor)
メモリアム・コロシアム | ドジャー・スタジアム | ||
年度 | 得点PF | 年度 | 得点PF |
1958 | 107 | 1962 | 93 |
1959 | 101 | 1963 | 90 |
1960 | 114 | 1964 | 91 |
1961 | 100 | 1965 | 91 |
1966 | 94 |
ここでコーファックスの成績を見ると(偶然にも?)ドジャー・スタジアムの開場初年度から5年連続最優秀防御率獲得が始まっていることが分かりますが、コーファックスの成績をさらにホーム成績とアウェイ成績に区別すると興味深い事実が浮かび上がってきます。
ホーム成績
ホーム成績、つまりメモリアム・コロシアムとドジャースタジアムの成績は上の通り。
(メモリアム・コロシアムではイニング数がすくないめか)シーズン毎の成績にブレが大きく判断が難しいのですが、FIPと奪三振数でリーグトップとなった1961年ですらリーグ平均を大きく超えるような成績ではなく、やはり投手不利のメモリアム・コロシアムに苦しめられていたと考えられます。
しかし、ドジャー・スタジアム移転後はまさしくビデオゲームのような超人的成績。
ちなみに、メモリアム・コロシアム時代まではリリーフ登板も多く1962年以降と成績を直接的に比較するのは間違いかもしれませんが、メモリアム・コロシアム時代において先発成績(防御率3.94、WHIP1.336、被OPS.680)とリリーフ成績(防御率3.82、WHIP1.545、被OPS.703)の間に大きな差はありません。
アウェイ成績
先ほどのホーム成績ではドジャー・スタジアム移転直後から極端に投球内容が良化していましたが、アウェイ成績を見るとコーファックスの全盛期とも言われるドジャー・スタジアム時代(1962年~1966年)と開場前の2年間(1960年~1961年)の表面的な成績に大きな差がないことが分かります。
むしろアウェイ成績に関しては1961年から1962年にかけての成績向上よりも、1959年から1960年にかけての変化の方が断然大きく、コーファックスのキャリアを「~1961年⇔1962年~」で区別するよりは「~1959年⇔1960年~」で区別する方が自然なのかもしれません。
また、1962年が1963年~1966年と比べて見劣りする成績だったことを考慮して、「~1962年⇔1963年~」で区別すると以下の通り。
パッと見ではアウェイ成績も1963年から大きく向上しているように感じられます。
しかし、ここで思い出してほしいのは先述した「ストライクゾーン拡大」について。
~1962年のMLB平均成績は防御率3.90前後(もちろんFIPも同様)、OPS.720前後でしたが、ストライクゾーン拡大によって1963年~の平均成績は防御率3.50前後(もちろんFIPも同様)、OPS.685前後へと大きく変化していましたね。
これをコーファックスのアウェイ成績に照らし合わせて考えると、MLB平均に対する1960年~1962年の防御率の傑出度は1963年~にそれほど劣らないもの。それどころかFIPや被OPSなどは1960年~1962年の傑出度の方が上だということが分かるはずです。
つまり、アウェイ成績だけでは~1962年の投球内容が1963年~と比べて劣っているとは一概に言えないわけです。
これらを踏まえて
1963年以降のイニング数の大幅増加やワールドシリーズでも登板も含めた疲労過多、1962年の人差し指の故障、1963年からの肘の関節炎などの身体的ダメージやホーム成績>アウェイ成績というスポーツの常識的な特性を考慮せず、数百イニングという少ないサンプルの上での考察にはなってしまいますが、(故障も実力のうちとして)コーファックスが後世語り継がれるようなクオリティの投手になったのは世間一般で認識されているような1962年や1963年とは一概に言えず、ノーム・シェリーのアドバイスを受けた1961年かもしれませんしそれ以前のことだった可能性すらあります。
そして、もしドジャースの本拠地がメモリアム・コロシアムやドジャー・スタジアムではなければ、コーファックスのキャリアは大きく変わっていたはず。「史上最高の投手は誰か?」の議論などにおいてコーファックスを野球史の中に位置づける際には、メモリアム・コロシアムとドジャー・スタジアムという特殊な球場で両極端な成績を残したことも頭に入れておくべきでしょう。(加えてストライクゾーン拡大やエクスパンションも考慮しないと。)
1961年~1962年のエクスパンションによる球団増加、ドジャース投手陣全体での成績推移、コーファックスとダブルエースを組んだドン・ドライスデールも絡ませて書こうと思ったけどメンドイので止めます。そもそも記事を書いてて何を言いたいのか自分でもよく分からなくなったし。
最初は記事の締めに「コーファックスはドジャスタ専の過大評価」とか書こうと思ってたんだけどね。