アル・ケーライン:MLBレジェンド選手紹介

アル・ケーライン

本名:アルバート・ウィリアム・ケーライン
185㎝・79㎏/1934年12月19日生/メリーランド州ボルティモア/右投右打
1953年~1974年/ライト/ニックネーム:「Mr.タイガー」/タイガース
Baseball Reference
Fangraphs

概要

デトロイト・タイガースで22年間プレーし、ついたあだ名は「ミスター・タイガー」。通算3000本安打&399本塁打&史上最年少の首位打者など様々な功績を残した打撃力だけでなく、10度のGG賞に輝いたライト守備でも有名な選手でした。


経歴

デビュー前

1934年にボルティモアの箒メーカーで働く父親のもとに生まれます。この父親がセミプロ野球チームでもプレーしていたこともあり両親はスポーツに非常に寛容的で、学生の間は全くアルバイトなどをする必要もなくスポーツに集中しました。

セミプロの父親からは幼い頃から野球を教え込まれリトルリーグでは投手と打者の両方で活躍。10歳~12歳の3年間で投手として10勝0敗、打者として打率.800という数字を残し、11歳でソフトボール遠投53mを記録しました。高校では(フットボールとバスケットボールもプレーしましたが、フットボールはプレー中に頬骨を骨折したことにより断念。)初めは投手としてプレーしましたが1年目に外野手にコンバート。コンバート後すぐに打者として活躍して16歳の時点でMLBチームの興味を集め、高校卒業後(1953年)の翌日にタイガースと3万ドル(契約金1万5000ドル+年俸1万5000ドル)で契約しました。

また、ケーラインは8歳の時に骨髄炎を患っており、これは慢性的な病気で左足から感染した骨を除去する必要がありました。この病気により、現役時代も含めて生涯にわたり左足の痛みに悩まされ続けることになります。

MLBデビュー後

キャリア前半

契約直後の1953年6月にマイナーリーグでプレーすることなく若干18歳でMLBデビュー。控え選手としてプレーしましたが流石にまだ18歳だったので低成績に終わりました。しかし、シーズン途中に監督の紹介でテッド・ウィリアムズから指導を受け、その後もウィリアムズとの交友関係は続きました。

1954年シーズンには前任者の怪我により19歳でライトのレギュラーに。前半戦はOPS.549と悲惨な成績でしたが後半戦はOPS.759と好成績を残し、ライト守備でもMLB全体のライトでNo.1の守備成績を残しました。また、シーズン後には高校時代からの彼女と結婚。

そして20歳で迎えた1955年シーズン、開幕から別人のようなバッティングを披露し前半戦は打率.371、OPS1.067の好成績でASに選出。最終的には打率.340、200安打を記録し史上最年少の首位打者となりました。ただしMVP投票ではヤンキースのヨギ・ベラに破れています。

しかし、一躍大スターとなったものの1956年はプレッシャーと足の怪我により成績が低下。1959年にOPSでリーグトップになるまで打撃成績は伸び悩みを見せました。また、この頃にはオーナーと契約更改で揉めたり記者やメディアとの関係が悪化してファンからのイメージも悪くなっていたようです。ただ、ライトの守備力は相変わらず超一流であり1957年にGG賞が創設されるとその年から11年間で10度受賞。

1959年はセンターのレギュラー選手の故障によりライトからセンターにコンバート(1961年にライト復帰)。守備成績は低下しましたがミッキー・マントルを抑えOPSでリーグトップに。この時ですらまだ24歳でした。

1962年には開幕から36試合で13本塁打を記録。キャリアベストの成績を残す勢いでしたが、36試合目のヤンキース戦で守備の際に打球に飛び込み鎖骨を骨折。約2ヶ月欠場することになります。復帰後は少し調子を落としたものの最終的に100試合で29本塁打。もし怪我がなければ最初で最後のMVPになっていたはずです。

キャリア後半

1963年~1965年は毎年足の怪我に悩まされ1965年オフには手術を受けます。ただ、これが功を奏したのか1966年~1967年はOPS+168を記録。相変わらず手を骨折するなどの怪我によりフル出場は不可能でしたが打撃だけは第2の全盛期を迎えました。

ただ、この頃から守備成績に劣化が見え始め1968年からはファーストでの出場も増加。その1968年、タイガースの外野はレフトにウィリー・ホートン(∗1)、センターにジョン・ノースラップ(∗2)、ライトにアル・ケーラインの陣容で開幕を迎えますが、ケーラインが5月の終わりに死球により1ヶ月離脱すると控えのミッキー・スタンレー(∗3)がセンターのレギュラーとなりノースラップがレフトに移りました。これによって復帰後、ケーラインに外野のポジションは無く代打やファースト、外野のプラトーンとして起用されることなります。

しかし、ケーラインの低成績にも関わらずこの年のタイガースはリーグ優勝を果たしWSに出場。すると、監督のメイヨ・スミスはケーラインをWSにレギュラーとして出場させるためにスタンレーをショートにコンバートしノースラップをセンターに戻しケーラインをライトで出場されるという勝負手に出ます。最初で最後ののWS出場となったケーラインでしたがスミスの起用に答え7試合で打率.379、2本塁打、OPS1.055の大活躍を見せWS優勝に貢献しました。

これ以降は衰えにより並みのレギュラークラスの成績に収まり、1974年に通算3000本安打&18度目のオールスター選出を果たし引退。ただ、通算400本塁打にはあと1本届ていません。(引退理由は大学進学を迎えるの息子との時間を作りたかったため)

引退後

1980年に1年目で殿堂入り(得票率88.3%)、同年に背番号6がタイガースの永久欠番となりました。

また、1976年から25年間以上タイガースのテレビ放送の解説者を務め、2001年にはタイガースのオーナー特別顧問、2003年にはGM特別補佐とフロントオフィスで活躍しています。

(∗1)ウィリー・ホートン
この年36本塁打&OPS+165を記録。

(∗2)ジョン・ノースラップ
この年rWAR5.9を記録。

(∗3)ミッキー・スタンレー
この年外野のGG賞を受賞。


プレースタイル

通算3007安打、399本塁打を記録したにもかかわらず打撃よりも守備が先に話題になる選手で、とりわけその強肩は歴代の白人選手の中でもトップクラス。実際に通算TZR+155は歴代ライトの中でロベルト・クレメンテに次ぐ数字です。

グリップが低い位置からスウィングを始動。フラットなスイング軌道で体が開くのが早く遅れてバットが出てきます。バットコントロールに長け通算で四球>三振。

また、骨髄炎による足の痛みに悩まされ続けましたが、足への負担を抑える特殊なシューズを履いてプレーしたこともありました。


人物

あまりメディアとの関係は良くなかったようですがオールスターに18回選出されるなど人気は抜群。その割に今は話題になることが少ないような気がします。

また、現役時代には自動車部品会社を設立して副会長としても経済面で成功を収めました。


評価

「歴代野球選手ランキング」:56

飛び抜けた成績を残したシーズンがないため過小評価をされがちですが、キャリア全体での成績を見ると歴代トップクラスの外野手です。実際にWARの値だけなら同時代にプレーしたロベルト・クレメンテをほとんど違いはありません。

また、マイナーリーグでの出場経験もなく18歳でデビューして史上最年少で首位打者になるなど歴史に残るとプロスペクト。ただ、上でも述べたように子供の時に患った骨髄炎に悩まされその才能通りのキャリアを歩んだとは到底思えません。この病気&怪我も考慮にすればロベルト・クレメンテ以上の選手だったとも考えられます。

GG賞も通算10回受賞しましたがレギュラー4年目の1957年に制定されたアワードなので、時期が違えば11~13回受賞していた可能性もあります。


記録

通算記録
rWAR:92.8:歴代42位、ライト歴代7位
fWAR:88.9:歴代38位、ライト歴代6位
安打:3007:歴代31位
塁打:4852:歴代27位
試合:2834:歴代18位
得点:2152:歴代12位
TZR(外野):158:外野手歴代9位
TZR(ライト):155:ライト歴代2位
捕殺:3865:ライト歴代9位
刺殺:146:ライト歴代20位

シーズン成績
rWAR野手リーグ3位以内:7回
OPS+リーグ3位以内:3回
首位打者:1回
打率リーグ3位以内:6回
最多安打:1回
二塁打リーグ1位:1回
TZRリーグ1位(ライト):8回:歴代2位
捕殺リーグ1位(ライト):5回
刺殺リーグ1位(ライト):3回
RF/Game・リーグ1位(ライト):7回:歴代1位


参考文献・サイト

・「Baseball: The Biographical Encyclopedia」Matthew Silverman著

・「The New Bill James Historical Baseball Abstract」Bill James著

・「The Detroit Tigers Encyclopedia」Jim Hawkins 著

・「SABR BioProject」https://sabr.org/bioproj/person/6d9f34bd