ミュール・サトルズ:ニグロリーグ・レジェンド選手紹介(MLBレジェンド選手紹介番外編)


MLBレジェンド選手紹介


前回は第1弾として”オスカー・チャールストン”を取り上げましたが、今回はニグロリーグ屈指の強打者として名をはせたミュール・サトルズについて。

周知の事実だとは思いますが、ニグロリーグの試合結果はMLBと比べて残っていないものも多く、チャールストンの記事と同様にサトルズの成績も不完全であることには留意してください。

オスカー・チャールストン:ニグロリーグ・レジェンド選手紹介



ミュール・サトルズ

本名:ジョージ・サトルズ
188㎝・97㎏/1901年3月31日生/
右投右打/
1923年~1944年/ファースト
Baseball Reference
Seamheads.com

概要

ジョシュ・ギブソン、バック・レナード、オスカー・チャールストン、ターキー・スターンズ、クリストバル・トリエンテ、ジョン・ベックウィズなど多くの偉大なスラッガーを擁したニグロリーグの中でも最大級の巨躯を誇り純粋なパワーだけならジョシュ・ギブソンと同列に語られる飛ばし屋。

(諸説こそあるものの)重さ50オンス(1.42kg)のバットを用いたことでも有名で、少し前まではニグロリーグ史上最多本塁打記録を保有。2006年には殿堂入りも果たしています。(今では過去の試合結果集計が進み、最多通算本塁打記録の持ち主はジョシュ・ギブソンとなっています。)


経歴

デビュー前

当時は炭鉱の町として栄えていたアラバマ州ブロックトン(バーミンガム郊外)の炭鉱夫の下で生まれ、父親・兄弟と共に炭鉱(エッジウォーター鉱山)で働く傍らでバーミンガムのゼミプロ黒人チームの一員としてプレー。ただ、この時代についての情報は本人へのインタビューも含めてほとんど残っておらず、セミプロにおいてどれほどの活躍を見せていたのかは不明。

1921年当時のエッジウォーター鉱山付近の町の様子。

ニグロリーグ入り後

キャリア初期

1920年に誕生したばかりの黒人球団バーミンガム・ブラックバロンズ(ニグロリーグ界のマイナリーグ的存在であるニグロ・サザン・リーズ所属)へ1923年に入団。ただ、外野が広い本拠地リックウッド・フィールドに苦しめられたのか1年目はホームランを1本しか放てず。さらに、1924年からブラックバロンズがニグロ・ナショナル・リーグ(ニグロリーグ界の二大リーフのうちの一つ)に加入したため一気に対戦空いたがレベルアップしますが、1924~1925年にかけて順調に打撃成績は向上。

とりわけ1925年は、レフトからファーストへコンバートされ守備への負担が減ったことが功を奏したのか前年の3倍以上のペースでホームランを量産。この活躍により選手としての名声と評価が大きく上昇したことは間違いなく、1926年からは同リーグにおいてカンザスシティ・モナークスを双璧を成しウィリー・ウェルズ(∗1)やクール・パパ・ベルなど後にニグロリーグ史に残る選手となる若手スターを抱えていたセントルイス・スターズでぷれーすることとなります。

そして、その1926年はサトルズがニグロリーグ史上最高クラスの打撃成績を残すこととなる1年で、スターズの本拠地であるスターズ・パークはレフトフェンスまでの距離が短く、ブラックバロンズ時代から一転して本拠地の恩恵を受けたサトルズは驚異的なペースでホームランを量産。終わってみれば86試合でニグロリーグ歴代最多記録となるシーズン30本塁打を記録し打率(.429)&打点(135)でもリーグトップとなり三冠王に輝いただけだなく、OPS1.364は2位のターキー・ステアーンズ(1.175)や3位のウィリー・ウェルズ(1.045)を大きく引き離す数字でした。翌年1927年は故障により36試合の出場に終わったものの9本塁打&OPS1.432を残し、1928年も76試合で21本塁打&OPS1.109(リーグトップ)を記録していることからこの頃がサトルズの選手としてのピークであり、間違いなくニグロ・ナショナル・リーグ最高のバッターだったと言えるでしょう。ただ、オスカー・チャールストンや当時ピークを迎えていたジャッド・ウィルソン、ジョン・ベックウィズらがイースタン・カラード・リーグ(二大リーフのうちの一つ)でプレーしていたため、サトルズが黒人No.1バッターであったかは判断のしようがありませんね。

キャリア中期

他リーグ球団へのパートタイム的参加やハワイ遠征などを行いながらも1931年までスターズ及びニグロ・ナショナル・リーグでプレーを続けましたが、1931年限りでニグロ・ナショナル・リーグが消滅したことにより、1932年からはエースト・ウエスト・リーグやニグロ・ナショナル・リーグⅡのシカゴ・アメリカン・ジャイアンツでプレー。

しかし、ジャイアンツの監督を務めていたデイブ・マラハー(∗2)に大振りのスイングを去勢されたことにより成績が低迷。ホームラン数だけでなく打率も下落する結果となり、ニグロ・ナショナル・リーグ時代と同様にリーグトップクラスの成績を残すターキー・ステアーンズやウィリー・ウェルズを尻目に選手評価を落とすこととなります。

ただ、ニグロリーグ間でのオールスターゲームやキューバ・リーグ、カリフォルニア・ウィンター・リーグ(∗3)(サトルズは2度の首位打者、6度のホームラン王のタイトルを獲得し、白人投手相手には124打数で打率.444、長打率.968を記録。同リーグにおける通算64本塁打は歴代最多、打率.378は歴代2位。)などではトップクラスの成績を残しており、チームや監督が違えば依然として上位の数字を残せるバッターではあったはず。

キャリア後期

ジャイアンツが財政難に陥ったことにより1936年からニグロ・ナショナル・リーグⅡ所属のニューアーク・イーグルスに移籍。結果としてサトルズは1944年の引退までこのイーグルスでプレーすることとなります。(1941年だけはトレード移籍によりニューヨーク・ブラック・ヤンキースでプレー。)

イーグルス移籍によりマラハー監督の元から離れたおかげかサトルズの強打は復活。ジョシュ・ギブソンやバック・レナードなど次の世代の若手スラッガーには及ばなかったものの、イーグルスでは計8シーズン(35歳~43歳)・185試合で681打席・44本塁打・OPS1.015を記録するなど年齢を感じさせない活躍を見せ、1937年にはウィリー・ウェルズ、レイ・ダンドリッジと共に「100万ドルの内野陣」とも呼ばれる豪華内野陣を形成。

1943年からは選手兼任監督として2年間に渡り同球団の監督を務めましたが、ニグロ・ナショナル・リーグⅡの絶対王者として君臨していたホームステッド・グレイズ(∗4)の高い壁を超えることはできずイーグルスで優勝を経験することはありませんでした。

引退後

1944年限りで選手としてニグロリーグから引退したサトルズはその後のセミプロの黒人チームの監督やニューヨーク・ブラック・ヤンキースのコーチを務め、指導者からも引退するとニューアークに永住するし1949年に結婚。1966年・65歳でガンにより死去。その死後40年後の2006年にやっと殿堂入りを果たしています。

(∗1)ウィリー・ウェルズ
ジョン・ヘンリー・ポップ・ロイドとならぶニグロリーグ史上最高のショートの1人。サトルズと同じく右打者だったので本拠地の恩恵を受けていたはず。

(∗2)デイブ・マラハー
当時のニグロリーグを代表する名監督。スモールベースボールを好む監督で、実際に当時のジャイアンツはスモールベースボールや守備走塁というサトルズとは正反対なスタイルをウリとするチームでした。

(∗3)カリフォルニア・ウィンター・リーグ
18世紀から続く名物的なウィンター・リーグ。1910年ごろからは黒人選手も参加を始め、黒人選手と白人選手が対戦する非常に貴重な機会となっていました。

(∗4)ホームステッド・グレイズ
ジョシュ・ギブソンとバック・レナードを中心に1937年~1945年の9年間で9度の優勝を果たした当時の最強チーム。


プレースタイル

純粋なロー・パワーだけならば20世紀前半において5本指には入る屈指のパワー・ヒッター。大振りのフリースウィンガーだったと言われていますが、巨躯にもかかわらずローボール・ヒッターであったとも伝えられています。

もちろんジョシュ・ギブソンやオスカー・チャールストンと同様に様々な特大ホームラン伝説を残しており、最も有名なエピソードは1928年オフのキューバでのウインターリーグの試合におけるもの。ハバナのトロピカーナ・パークで行われたその試合でサトルズはホームから500フィート(152.4m)離れた高さ60フィート(18m)のフェンスを越える場外ホームランを放ったとのこと。また、レオン・デイ(ニグロリーグ屈指の名投手。サトルズと同じく野球殿堂入り。)の証言によると、グリフィス・スタジアムでセンター方向に場外ホームランを放ったそうです。(グリフィス・スタジアムで場外ホームランを放ったのは他にジョシュ・ギブソンのみ。ミッキー・マントルも伝説的な特大ホームランを放ちましたが看板に当たったため場外ホームランにはならず。)

(当然のことでわざわざ記す必要性はないかもしれませんが、サトルズに限らず過去のホームランの飛距離なんてものはほとんどが盛られているので、嘘半分で話を受け止めるのが普通ですよね。時々ああいうのをマジで信じてしまう残念なファンもいますが。)

↑1940年代のグリフィス・スタジアム

また、サトルズの驚異的なパワーを表すエピソードとして重さ50オンス(1.42kg)の超重量級バットを用いていたという話が非常に有名。ただ、1930年代後半に当時のニグロリーグでは珍しくかの有名バットメーカー・ルイビルスラッガー社に特注のバットを発注するなどバットにこだわりを見せていた人物ですが、ルイビルスラッガー社へは33オンス(0.94kg)と36オンス(1.02kg)のバットを発注していたので、重さ50オンスのバットを使用していたのは限られた期間だけのようです。

守備走塁に関しては、肥満体型と鈍足のためファーストとレフトの両方で守備範囲は狭かったものの堅実な守備を見せたと伝えられています。ただ、Seamheads.comの守備防御点ではファーストとして歴代3位の数字を残していることから、実際にはファースト守備は優秀だった可能性アリ。ちなみに、上記のイーグルスの「100万ドルの内野陣」は打撃力だけでなく守備も高く評価されていたようです。


人物

温厚かつ寡黙な人物として有名でキャリア晩年には後輩から父親のように慕われたナイスガイ。ただ、目立つことを嫌う性格が選手としての過小評価に繋がったとの意見も。


評価

1952年にピッツバーグ・クーリエ紙で行われたニグロリーグ歴代ベストナインを決める選手間投票において、レフトとして第4位に入るなど(ファーストとしても票を獲得)同業者からの評価は成績のわりに低め。

ただ、ビル・ジェームズのニグロリーグ・ポジション別選手ランキングではレフト部門の2位にランクイン(1位はターキー・ステアーンズ)。ファースト部門扱いであれば同部門1位のバック・レナードのライバルとなっていたとのこと。また、1999年にSABRが発表したニグロリーグ歴代選手ランキングでは13位タイ、Kevin Larkin(SABR所属の野球史研究家)のランキングでは14位にランクイン。

自分が現在仮に作成しているランキングでも15位にランクインさせています。


記録

20世紀に活躍した最も有名なニグロリーグ史研究家であるジョン・ホロウェイの集計では通算237本塁打でニグロリーグ歴代最多記録の持ち主となっていましたが、その後の研究によりジョシュ・ギブソンやターキー・ステアーンズらが上の可能性も指摘されています。

Register Batting
Year Age Tm Lg Lev PA AB H 2B 3B HR RBI SB BB BA OBP SLG OPS
1921 20 Bacharach INDP Non 4 4 1 0 0 0 0 0 0 .250 .250 .250 .500
                                   
1923 22 2 Teams 2 Lgs NgM-Non 134 127 36 4 3 1 16 4 6        
1923 22 Birmingham NNL NgM                          
1923 22 Birmingham NNL NgM 134 127 36 4 3 1 16 4 6 .283 .316 .386 .702
1923 22 Birmingham INDP Non                          
1923 22 Birmingham INDP Non 134 127 36 4 3 1 16 4 6 .283 .316 .386 .702
1924 23 Birmingham NNL NgM 303 282 96 23 3 4 61 1 14 .340 .372 .486 .857
1925 24 Birmingham NNL NgM 291 252 79 6 4 10 12 9 32 .313 .391 .488 .879
1926 25 St. Louis NNL NgM 242 220 86 17 11 15 48 0 18 .391 .437 .773 1.210
1927 26 St. Louis NNL NgM 67 67 33 6 3 8 14 1 0 .493 .493 1.030 1.522
1928 27 St. Louis NNL NgM 342 310 112 19 11 20 35 5 22 .361 .404 .687 1.091
1929 28 2 Teams NNL NgM 296 269 94 26 8 10 43 5 22 .349 .399 .617 1.016
1929 28 St. Louis NNL NgM 296 269 94 26 8 10 43 5 22 .349 .399 .617 1.016
1929 28 Chicago NNL NgM 296 269 94 26 8 10 43 5 22 .349 .399 .617 1.016
1930 29 2 Teams 2 Lgs Non-NgM 165 145 51 9 5 10 30 4 16        
1930 29 St. Louis NNL NgM                          
1930 29 St. Louis NNL NgM 165 145 51 9 5 10 30 4 16 .352 .416 .690 1.106
1930 29 Baltimore INDP Non                          
1930 29 Baltimore INDP Non 165 145 51 9 5 10 30 4 16 .352 .416 .690 1.106
1931 30 St. Louis NNL NgM 40 39 13 5 0 2 5 0 0 .333 .333 .615 .949
1932 31 2 Teams EWL NgM 80 75 19 7 2 2 5 2 5 .253 .300 .480 .780
1932 31 Detroit EWL NgM 80 75 19 7 2 2 5 2 5 .253 .300 .480 .780
1932 31 Washington EWL NgM 80 75 19 7 2 2 5 2 5 .253 .300 .480 .780
1933 32 Chicago NNL NgM 97 92 25 5 2 3 18 2 5 .272 .309 .467 .777
1934 33 Chicago NNL NgM 161 154 47 4 2 4 5 3 7 .305 .335 .435 .770
1935 34 Chicago NNL NgM 128 109 33 5 0 8 27 2 18 .303 .402 .569 .970
1936 35 Newark NNL NgM 45 45 15 3 0 4 7 1 0 .333 .333 .667 1.000
1937 36 Newark NNL NgM 86 82 29 4 0 5 21 1 4 .354 .384 .585 .969
1938 37 Newark NNL NgM 91 89 24 1 0 9 20 0 0 .270 .270 .584 .854
1939 38 Newark NNL NgM 67 62 18 4 0 4 9 0 5 .290 .343 .548 .892
1940 39 Newark NNL NgM 124 108 30 7 0 5 27 2 15 .278 .366 .481 .847
1941 40 New York Black Yankees NNL NgM 65 62 14 1 0 1 6 0 3 .226 .262 .290 .552
1942 41 Newark NNL NgM 12 12 5 1 0 2 3 1 0 .417 .417 1.000 1.417
1943 42 Newark NNL NgM 5 5 1 0 0 1 1 0 0 .200 .200 .800 1.000
1944 43 Newark NNL NgM 26 22 5 0 1 1 4 0 4 .227 .346 .455 .801
Year Age Tm Lg Lev PA AB H 2B 3B HR RBI SB BB BA OBP SLG OPS
All All All     3546 3248 1066 203 73 152 511 58 245        

参考文献・サイト

・「Baseball: The Biographical Encyclopedia」Matthew Silverman著

・「The Biographical Encyclopedia of the Negro Baseball Leagues」James A. Riley著

・「The New Bill James Historical Baseball Abstract」Bill James著

・「Baseball’s Ultimate Power」Bill Jenkinson著

・https://sabr.org/node/29393

・https://baseballhall.org/hall-of-famers/suttles-mule

・https://www.baseball-reference.com/bullpen/Mule_Suttles

・https://www.sluggermuseum.com/about-us/blog/article/19/kick-mule-kick