【MLB】選手晩年に移籍した名選手とその経緯:20世紀前半編


【MLB】選手晩年に移籍した名選手とその経緯:20世紀後半編


フリーエージェントやマイナー組織制度等の充実により選手のチーム移籍が当然となっている現在とは対照的に過去のメジャーリーグでは多くのレジェンド選手がフランチャイズ・プレーヤーとしてプレーしましたが、その中でもフランチャイズ・プレーヤーとして確固たる実績を残しながらも様々な理由によってチームを移籍することとなったレジェンド選手も少なくはありません。

今回の記事では「選手晩年に移籍した名選手とその経緯」と題し、文字通りキャリア晩年にチームを移籍した名選手にスポットを当てその経緯や理由を簡単にまとめました。



ベーブ・ルース

移籍前

1919年オフのトレード移籍以降ヤンキースだけでなくアメリカ・スポーツ界最大のアイコンとして活躍。守備力は30代に入り年々悪化の一途を辿っていったものの、バッティングにおいては30代後半までMLBトップクラスの成績を残すなど文字通り打撃王として君臨し、ヤンキースを4度のワールドシリーズ優勝、7度のリーグ優勝に導くなど第1次黄金期の立役者に。

移籍の経緯

1931年まで6年連続でホームラン王となりましたがそれ以降は年々ホームランも減少。ホームランが減ったとはいえ出塁率も高くOPSは高水準で貢献度も非常に高かったはずですが、当時はもちろん打率、ホームラン、打点で評価される時代。1932年までは2位の選手にダブルスコア近い年俸(7万~8万ドル)を受け取っていましたが1933年は5万2000ドル、1934年は3万5000ドルまで下落。その1934年シーズン中にはシーズン限りでの引退(またはヤンキース退団)がファンの間でも周知の事実となっていました。

ただ、選手として衰え始めてからルースの中で監督業への興味が高まっており、1933年~1934年ごろには度々他チームから監督就任のオファーも受けていたとのこと。

そういった中で、ヤンキースは1934年シーズン限りで選手としてのルースを切ること決断。ルースを放出しても構わないヤンキースと監督に転向したいルースの意向が噛み合ったことで、ルースはヤンキースからのリリースをわりかしすんなりと受け入れ、3年契約・年俸2万5000ドル・球団副社長&アシスタントマネージャー就任という好条件をオファーしたボストン・ブレーブスに移籍することとなります。

当初ブレーブスでは選手とアシスタント・マネージャーを1年間兼任した後に選手兼任監督として采配を揮う予定でしたが、1935年シーズンに入ると急激な衰えを見せ5月限りで急遽ながら引退。また、ルースを含め選手たちが軒並みスランプと衰えで成績を落としたブレーブスはシーズン38勝115敗という史上ワーストクラスのチーム成績を残し、資金難によってシーズン途中にオーナーが交代。

結局のところ、このようなゴタゴタによりルースがブレーブスの監督に就任することはなく、翌年以降は現役時代と打って変わって監督オファーを行うチームもありませんでした。

Standard Batting
Year Age Tm G PA H HR SB BB SO BA OBP SLG OPS OPS+
1931 36 NYY 145 663 199 46 5 128 51 .373 .495 .700 1.195 218
1932 37 NYY 133 589 156 41 2 130 62 .341 .489 .661 1.150 201
1933 38 NYY 137 576 138 34 4 114 90 .301 .442 .582 1.023 176
1934 39 NYY 125 472 105 22 1 104 63 .288 .448 .537 .985 160
1935 40 BSN 28 92 13 6 0 20 24 .181 .359 .431 .789 119
22 Y 22 Y 22 Y 2503 10624 2873 714 123 2062 1330 .342 .474 .690 1.164 206

タイ・カッブトリス・スピーカー

移籍前

カッブはタイガース、スピーカーはレッドソックスとインディアンズで長らくプレーし、MLB史上もっとも有名な選手間ライバルとしてアメリカンリーグの頂点に君臨したスーパースターの2人。

特にスピーカーのキャリアについては下の記事に詳しく書いています。

トリス・スピーカー:MLBレジェンド選手紹介

移籍の経緯

2人とも1920年代に入り衰えを見せるわけですが、1926年のシーズン終了直後にカッブ→スピーカーと立て続けに引退を表明。野球界に大きな衝撃を与えますが、12月に入りダッチ・レナードにによる「タイ・カッブとトリス・スピーカー(+他選手)が1919年に八百長を行った!」といった内容の告発が公表され、カッブとスピーカーの引退はこの告発を受けてのモノだったことが分かります。

その後はカッブとスピーカーは無実を訴え上院議員も絡む大事に。さらに当時MLBコミッショナーを務めていたマウンテン・ランディスとAL会長のバン・ジョンソンの間における個人的恨みと権力争いも絡み、最終的にはカッブとスピーカーは自由契約状態となりそれぞれフィラデルフィア・アスレチックスとワシントン・セネタースに移籍することに。

ただ、カッブ、スピーカー、ランディス、ジョンソンらの間でどのようなやり取りや決め事が行われたのか、そもそも何故告発公表後に無実を訴えたカッブとスピーカーが当初は引退を受け入れたのか不明な部分も多く、詳細な移籍の経緯は記しようがありません。

Standard Batting
Year Age Tm G PA H HR SB BB SO BA OBP SLG OPS OPS+
1924 37 DET 155 727 211 4 23 85 18 .338 .418 .450 .867 125
1925 38 DET 121 492 157 12 13 65 12 .378 .468 .598 1.066 171
1926 39 DET 79 273 79 4 9 26 2 .339 .408 .511 .918 137
1927 40 PHA 133 574 175 5 22 67 12 .357 .440 .482 .921 134
1928 41 PHA 95 393 114 1 6 34 16 .323 .389 .431 .819 112
24 Y 24 Y 24 Y 3034 13090 4189 117 897 1249 680 .366 .433 .512 .944 168
Standard Batting
Year Age Tm G PA H HR SB BB SO BA OBP SLG OPS OPS+
1924 36 CLE 135 576 167 9 5 72 13 .344 .432 .510 .943 141
1925 37 CLE 117 518 167 12 5 70 12 .389 .479 .578 1.057 166
1926 38 CLE 150 661 164 7 6 94 15 .304 .408 .469 .877 127
1927 39 WSH 141 596 171 2 9 55 8 .327 .395 .444 .839 119
1928 40 PHA 64 212 51 3 5 10 5 .267 .310 .450 .761 95
22 Y 22 Y 22 Y 2789 12012 3514 117 436 1381 393 .345 .428 .500 .928 157

クリスティ・マシューソン

移籍前

1914年までに当時歴代2位となる361勝を残し、現役時代から史上最高の投手と呼ばれた20世紀前半の投手最大のスター選手。ニューヨーク・ジャイアンツを当時アメリカNo.1人気チームに押し上げた立役者でした。

移籍の経緯

1914年からERA+が100を切るなど急激な衰えを見せ現役選手としては限界に。

このマシューソンもベーブ・ルースと同様に監督就任を希望していたのですが、当時のジャイアンツはアメリカ史上最も偉大な監督であるジョン・マグローが監督を務めていたためマシューソンがジャイアンツの監督に就任することは実質的に不可能。

そして1916年シーズン途中、マシューソンの監督就任希望を汲み取ったマグローはシンシナティ・レッズの選手兼任監督を務めていたバック・ハーゾグらとのトレードでマシューソンを放出。もちろんマシューソンはそのままレッズの選手兼任監督に就任することとなります。

ちなみに、ハーゾグは1913年までジャイアンツでプレーしていてレッズに移籍したのもオーナーが勝手にトレードしたため。マグロはハーゾグを選手としてジャイアンツに復帰させたかったわけで、監督をやりたがっていたマシューソンとトレードするにはうってつけの相手だったわけですね。

その後

選手兼任監督と書きましたがレッズでの登板はたった1試合だけ。その試合はマシューソンのライバルであったモーデカイ・ブラウンの引退試合でもあったので、シーズンの中の真剣勝負というよりは偉大な投手を最後にマッチアップさせる引退興行試合だったみたいですね。

マシューソンはその後もレッズの監督を務めましたが、1918年の第1次世界大戦従軍中に毒ガスを吸ってしまい、帰国後も後遺症に悩まされ監督を続けることはできませんでした。

Standard Pitching
Year Age Tm W L ERA G IP BB SO ERA+ FIP WHIP BB9 SO9 SO/W
1911 30 NYG 26 13 1.99 45 307.0 38 141 167 2.44 1.111 1.1 4.1 3.71
1912 31 NYG 23 12 2.12 43 310.0 34 134 161 2.54 1.113 1.0 3.9 3.94
1913 32 NYG 25 11 2.06 40 306.0 21 93 153 2.49 1.020 0.6 2.7 4.43
1914 33 NYG 24 13 3.00 41 312.0 23 80 88 2.83 1.080 0.7 2.3 3.48
1915 34 NYG 8 14 3.58 27 186.0 20 57 72 2.76 1.177 1.0 2.8 2.85
1916 35 TOT 4 4 3.01 13 74.2 8 19 83 2.82 1.098 1.0 2.3 2.38
1916 35 NYG 3 4 2.33 12 65.2 7 16 105 2.74 1.005 1.0 2.2 2.29
1916 35 CIN 1 0 8.00 1 9.0 1 3 34 3.43 1.778 1.0 3.0 3.00
17 Y 17 Y 17 Y 373 188 2.13 636 4788.2 848 2507 136 2.26 1.058 1.6 4.7 2.96

マックス・キャリー

移籍前

1910年にパイレーツでMLBデビューを果たすと1925年までに10度の盗塁王(リッキー・ヘンダーソンの12回に次ぐ歴代2位の記録)に輝いたスピードスター。1925年にはワールドシリーズでMVP級の活躍を見せ(ワールドシリーズMVP賞の制定前)優勝に貢献するなど、成績以上のインパクトを残したフランチャイズ・プレーヤーでした。

移籍の経緯

当時、パイレーツでは1910年~1916年の約16年間にも渡り同球団の選手兼任監督を務めたフレッド・クラーク(1941年殿堂入り)がチームの一部株式を保有し球団副社長として強い権限を握っており、まだ30代と若い監督ビル・マッキニーの采配に介入することが多々ありました。

このクラークに不満を抱いた球団キャプテンのキャリー、1907年からパイレーツでプレーしている名投手ベーブ・アダムズ、パイレーツ一筋11年のベテラン捕手カーソン・ビッグビーら3人はクラークの介入停止=クーデターを画策し、シーズン途中の8月にクラークのベンチ立ち入り禁止に関して選手間投票を行うも6-18で大敗。

当然ながらクラークを完全に敵に回した3人は翌日の試合後にパイレーツからリリースされ、アダムスとビッグビーはそのまま引退。キャリーは当時暗黒期を迎えていたブルックリン・ドジャースに移籍することとなりましたが、移籍時点ですでに選手としてのピークは過ぎておりリプレイスメントレベルの成績に終わっています。

(また、アダムス、ビッグビー、そしてキャリーの頭文字を取って「ABC事件」と呼ばれたこの騒動によりクラークは非難を受け2か月後にパイレーツの株式を全て売却。)

Standard Batting
Year Age Tm G PA H HR SB BB SO BA OBP SLG OPS
1924 34 PIT 149 683 178 8 49 58 17 .297 .366 .417 .783
1925 35 PIT 133 620 186 5 46 66 19 .343 .418 .491 .909
1926 36 TOT 113 483 98 0 10 38 19 .231 .294 .300 .594
1926 36 PIT 86 370 72 0 10 30 14 .222 .288 .296 .584
1926 36 BRO 27 113 26 0 0 8 5 .260 .315 .310 .625
1927 37 BRO 144 623 143 1 32 64 18 .266 .345 .364 .709
1928 38 BRO 108 351 73 2 18 47 24 .247 .354 .304 .658
1929 39 BRO 19 27 7 0 0 3 2 .304 .407 .304 .712
20 Y 20 Y 20 Y 2476 10768 2665 70 738 1040 695 .285 .361 .386 .747

ジミー・フォックス

移籍前

1925年・若干17歳でフィラデルフィア・アスレチックスでデビューを果たすと11シーズンでMVPを2回獲得するなどルー・ゲーリッグと並ぶ現役最強打者として活躍。1935年オフには財政難に陥ったアスレチックスのファイヤーセールによりレッドソックスに移籍すると1941年まで毎年オールスターに選出。

移籍の経緯

1930年代の象徴的スラッガーとして活躍したフォックスですが副鼻腔炎、視力低下、腹痛、脳震盪、アルコール依存症など様々な身体的問題を抱えその後は急激に成績が悪化。1942年のシーズン途中には打撃練習中に肋骨を骨折し、1万ドルとの金銭トレードでカブスに移籍することとなります。

カブスでは成績が更に悪化しシーズン終了時に引退を表明。

しかし、第2次世界大戦で選手が不足していた1944年~1945年にパートタイム・プレーヤーとして復帰すると、打者としてだけでなく投手としてもプレーするなど稀有な選手晩年を過ごしています。

まあ別に特別な理由で移籍したわけではないね。

Standard Batting
Year Age Tm G PA H HR BB SO BA OBP SLG OPS OPS+
1938 30 BOS 149 685 197 50 119 76 .349 .462 .704 1.166 182
1939 31 BOS 124 565 168 35 89 72 .360 .464 .694 1.158 188
1940 32 BOS 144 618 153 36 101 87 .297 .412 .581 .993 150
1941 33 BOS 135 582 146 19 93 103 .300 .412 .505 .917 139
1942 34 TOT 100 348 69 8 40 70 .226 .320 .344 .664 93
1942 34 BOS 30 120 27 5 18 15 .270 .392 .460 .852 135
1942 34 CHC 70 228 42 3 22 55 .205 .282 .288 .570 70
                           
1944 36 CHC 15 22 1 0 2 5 .050 .136 .100 .236 -32
1945 37 PHI 89 248 60 7 23 39 .268 .336 .420 .756 113
20 Y 20 Y 20 Y 2317 9676 2646 534 1452 1311 .325 .428 .609 1.038 163