【MLB】選手晩年に移籍した名選手とその経緯:20世紀後半編

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【MLB】選手晩年に移籍した名選手とその経緯:20世紀前半編


フランチャイズ・プレーヤーとして活躍するもキャリア晩年にそのチームから移籍することとなったレジェンド選手とその移籍経緯について記した企画。前回は20世紀前半の選手を取り上げましたが、今回はその20世紀後半版となります。



ウィリー・メイズ

移籍前

史上有数のトッププロスペクトとしてニューヨーク・ジャイアンツ(後にサンフランシスコへ移転)に加入すると、野球史上最高のオールラウンダーとしてベーブ・ルースと並び評される選手に。

1950~1960年代のアメリカスポーツ界においてモハメド・アリに次ぐアスリートであったことは間違いないでしょう。

移籍直前の経緯

1960年代のジャイアンツはメイズに加えウィリー・マッコービー、ホアン・マリシャル、ゲイロード・ペリー、オーランド・セペダらホール・オブ・フェイマーの活躍によりリーグ優勝1回、リーグ2位を5回記録するなど安定したチーム成績を残しました。

しかしながら、1968年シーズンからカンザスシティに本拠地を置いていたアスレチックスがサンフランシスコの目と鼻の先にあるオークランドへ移転。名門アスレチックスと市場を2分することとなったジャイアンツは人気&集客において大打撃を受け1966年に年間166万人、1967年に年間124万人を記録した観客動員数は1968年に年間84万人まで激減。

その中でメイズは1959年から1970年の12年間において1966年を除く全シーズンでMLB最高年俸を受け取っており、成績の下落が始まった1967年以降は年俸と成績が釣り合っていない状態。

財政難に苦しむジャイアンツにとって全盛期を過ぎたメイズを養う余裕は…。

1972年のトレード

1971年から年俸16万5000ドルの2年契約をジャイアンツと結んだメイズは(1971のMLB最高年俸はカール・ヤストレムスキーの16万7000ドル、1972年はハンク・アーロンの20万ドル)、1971年シーズン終了後に(引退後のコーチ業・広告塔も含めた?)年間7万5000ドルの10年契約を提案するもジャイアンツは拒否。

さらに1972年シーズンに入るとメイズの成績は打率1割台と低迷を続け、とうとうジャイアンツは1883年のチーム設立後で最も偉大なフランチャイズ・プレーヤーの放出を決意します。

この野球史に残るトレードの相手となったのは当時MLB全体No.1の観客動員数を記録していた人気球団ニューヨーク・メッツ。悪く言えば既に不良債権であったメイズの残り年俸を引き受けただけでなく対価として5万ドルとマイナーの投手1人をジャイアンツにトレードし、同時にメイズが選手と引退するまで年俸16万5000~17万5000ドルを支払い引退後にコーチとして年間7万500ドルの3年契約を結ぶことを保証するなど、超が付くほどの太っ腹ぶりをみせました。

その後

1972年シーズンのメッツ移籍後は控え選手として起用されたものの成績を盛り返し41歳のベンチプレーヤーとしては申し分のない成績。1973年は膝の痛みや肋骨の骨折に苦しめれリプレイスメントレベルの成績に終わったもののチームはワールドシリーズ出場を果たしましたが、皮肉なことにメッツ入団の遠因となったアスレチックスに敗れメイズは選手としてのキャリアを終了。

Standard Batting
Year Age Tm G PA H HR SB BB SO BA OBP SLG OPS OPS+
1968 37 SFG 148 573 144 23 12 67 81 .289 .372 .488 .860 156
1969 38 SFG 117 459 114 13 6 49 71 .283 .362 .437 .798 124
1970 39 SFG 139 566 139 28 5 79 90 .291 .390 .506 .897 140
1971 40 SFG 136 537 113 18 23 112 123 .271 .425 .482 .907 158
1972 41 TOT 88 309 61 8 4 60 48 .250 .400 .402 .802 131
1972 41 SFG 19 67 9 0 3 17 5 .184 .394 .224 .618 79
1972 41 NYM 69 242 52 8 1 43 43 .267 .402 .446 .848 145
1973 42 NYM 66 239 44 6 1 27 47 .211 .303 .344 .647 81
22 Y 22 Y 22 Y 2992 12496 3283 660 338 1464 1526 .302 .384 .557 .941 156

ジャイアンツの終わり

メイズの放出だけではジャイアンツの財政難は解消されず、1974年にはオーナーのホレス・ストーンハムが所有する球団運営会社は170万ドルの大赤字に陥り、1975年シーズン開始時点でチーム総年俸たった2ヶ月しか資金が残されていないという悲惨な状況に。

このような状況の中でメイズ放出も含め球史に残るファイヤーセールが展開され、1971年限りでゲイロード・ペリーを、1973年限りでウィリー・マッコービーとホアン・マリシャルを、そして1974年限りでボビー・ボンズを放出。更には1976年1月、親子2代&57年間にも渡ってチームを所有したストーンハム家がとうとうチームを手放すこととなりました。

また、1970年代から暗黒期に陥ったジャイアンツとは対照的にアスレチックスは1971年から5年連続で地区優勝、1972年から3年連続でワールドシリーズ制覇を果たすなど黄金期を迎えています。

ウォーレン・スパーン

移籍前

1942年にボストン時代のブレーブスでMLBデビューすると朝鮮戦争の徴兵により3年もの空白期間があったにもかかわらず、1964年までにブレーブス一筋20年間で計356勝&20勝以上13シーズンを記録。

チームの絶対的エースとして年俸も高額で、チームメイトのハンク・アーロンやエディ・マシューズ以上の高給取りでもありました。

移籍の経緯

1963年のシーズン終了後、ブレーブスのオーナーがビル・バーソロメイに交代。このバーソロメイは買収直後から当時ミルウォーキーに本拠地を置いていたブレーブスのアトランタ移転を目論みチーム改革を進めます。

その中で年俸が8万ドルと高額だったスパーンは1964年シーズンに急激な衰えを見せリーグ最低クラスの先発成績に。また、1963年から監督を務めているボブ・フラナガンとも折り合いが悪く(メッツ移籍後にフラナガンはスパーンを馬鹿にするようなコメントを残している)、先発起用にこだわりを持っていたいスパーンはシーズン後半戦にリリーフ転向を余儀なくされ不満を募らせつこととなるわけですが、チームのアトランタ移籍を機にチームを一新したいバーソロメイにとってもスパーンは構想外に。

そして1964年シーズンオフ、ブレーブスはスパーンに対し引退を勧告し「チームのテレビ&ラジオ放送の解説者」、「傘下マイナー球団の監督」、「傘下マイナー球団全体の投手コーチ」という3種類のオファーを行うもスパーン本人は現役続行を希望。結果としてチーム設立4年目のニューヨーク・メッツを移籍することとなります。

メッツでは投手コーチ兼任先発投手として1964年シーズン以上のパフォーマンスを見せたものの、監督のケーシー・ステンゲルと意見の相違がありシーズン途中にサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍。

結局のところ1965年限りでメジャーリーガーとしてキャリアを終えたものの、翌年以降はメキシカンリーグやAAAで選手兼任監督を務めるなど選手育成に精を出し、1970年代には度々広島カープの臨時投手コーチも行っています

Standard Pitching
Year Age Tm Lg W L ERA G IP BB SO ERA+ FIP WHIP BB9 SO9 SO/W
1960 39 MLN NL 21 10 3.50 40 267.2 74 154 98 3.42 1.225 2.5 5.2 2.08
1961 40 MLN NL 21 13 3.02 38 262.2 64 115 122 3.66 1.142 2.2 3.9 1.80
1962 41 MLN NL 18 14 3.04 34 269.1 55 118 125 3.59 1.125 1.8 3.9 2.15
1963 42 MLN NL 23 7 2.60 33 259.2 49 102 124 3.41 1.117 1.7 3.5 2.08
1964 43 MLN NL 6 13 5.29 38 173.2 52 78 67 4.36 1.474 2.7 4.0 1.50
1965 44 TOT NL 7 16 4.01 36 197.2 56 90 89 4.21 1.346 2.5 4.1 1.61
1965 44 NYM NL 4 12 4.36 20 126.0 35 56 81 4.37 1.389 2.5 4.0 1.60
1965 44 SFG NL 3 4 3.39 16 71.2 21 34 107 3.94 1.270 2.6 4.3 1.62
21 Y 21 Y 21 Y 21 Y 363 245 3.09 750 5243.2 1434 2583 119 3.44 1.195 2.5 4.4 1.80

ヨギ・ベラ

移籍前

言わずと知れたヤンキース史上最高の名捕手。マイナーリーグ時代、監督&コーチ時代も含めれば合計32年もの間ヤンキースの一員として貢献するなど、ある意味ではヤンキース最大のフランチャイズ・プレーヤーかも。

1~10位:ヤンキース歴代選手ランキングTop30

移籍の経緯

1960年代に入ると体力的な衰えから外野での出場が増え1963年シーズン限りで現役を引退。

その引退の3週間後に1年契約でのヤンキース監督就任が決定すると、1964年シーズンにヤンキースはベラの指揮下で99勝&リーグ優勝を果たしワールドシリーズでは惜しくも3勝4敗で敗退。ただ、これだけのチーム成績にもかかわらずベラの采配・チーム管理に満足がいかなかっらヤンキースのオーナー陣は、ベラに対し契約延長のオファーを行わず代わりにスカウトとしての契約をオファー。

もちろんスカウト業に興味の無かったベラはこのオファーを断り、1949年~1960年にヤンキース及びベラを指揮したケーシー・ステンゲルが監督を務めるニューヨーク・メッツとの間に選手兼任コーチとして年俸4万ドル(3万ドルや3万5000という説も)×2年契約を締結。

これで選手として復帰することとなったわけですが開幕からロースターには入っておらずコーーチに専念。しかしながら、正捕手のクリス・カニッツァーロが開幕から打率.130と大スランプに陥ったことで、4月27日にロースターに加えられたベラは5月にキャッチャーとして2度のスタメン出場を果たすこととなります。まあ、その後は選手として起用されることもなく気付かないうちに現役から完全引退。

Standard Batting
Year Age Tm Lg G PA H HR BB SO BA OBP SLG OPS OPS+
1960 35 NYY AL 120 404 99 15 38 23 .276 .347 .446 .792 118
1961 36 NYY AL 119 436 107 22 35 28 .271 .330 .466 .795 115
1962 37 NYY AL 86 263 52 10 24 18 .224 .297 .388 .685 85
1963 38 NYY AL 64 164 43 8 15 17 .293 .360 .497 .856 139
                             
1965 40 NYM NL 4 9 2 0 0 3 .222 .222 .222 .444 29
19 Y 19 Y 19 Y 19 Y 2120 8359 2150 358 704 414 .285 .348 .482 .830 125

ハーモン・キルブリュー

移籍前

18歳でミネソタ・ツインズの前身球団であるワシントン・セネタースでMLBデビューを果たすと1974年までに21シーズンで6度のホームラン王を獲得。1974年シーズン終了時点において通算559本塁打はベーブ・ルース、ハンク・アーロン、ウィリー・メイズ、フランク・ロビンソンら球史に残る名選手たちに次ぐ歴代5位の大記録でした。

移籍の経緯

当時のツインズでは同球団一筋でプレーし好守のセンターとして最多安打に5度輝いた名打者トニー・オリバ(後に球団の永久欠番に)が1973年から体力的な衰えによりDHに転向しており、同じく守備に限界を迎えDHに固定する必要があったハーモン・キルブリューとダブることに。さらに、ツインズは1974年まで4年連続で赤字となっていたもののロッド・カルーやバート・ブライレブンなど主力級には若手選手が多く彼らの年俸高騰に対処する必要があったわけですが、問題のキルブリューとオリバは低成績にもかかわらずチーム1・2位の高年俸。

これら要因が重なりツインズはキルブリューとオリバのどちらかを放出する必要に迫られますが、ツインズは結局のところオリバの残留を選びキルブリューには「チームのコーチ就任」、「傘下AAA球団の監督就任」、「リリースを受け入れ自由契約に」の3種のオプションを提示。

現役続行を希望していたキルブリューはその中でも3つ目のオプションを選択。ツインズも最終的には年俸4万ドル&打撃インストラクター兼任代打要員の1年契約をオファーしたものの、キルブリューはロイヤルズと1年契約を結び21年プレーしたツインズを離れることとなりました。(ロイヤルズとの契約年俸は調べても分からなかった。)

ロイヤルズではDHに固定されるも打撃成績は復活せずシーズン終了後に現役引退。

Standard Batting
Year Age Tm G PA H HR BB SO BA OBP SLG OPS OPS+
1970 34 MIN 157 665 143 41 128 84 .271 .411 .546 .957 159
1971 35 MIN 147 624 127 28 114 96 .254 .386 .464 .850 138
1972 36 MIN 139 532 100 26 94 91 .231 .367 .450 .817 138
1973 37 MIN 69 290 60 5 41 59 .242 .352 .347 .698 95
1974 38 MIN 122 382 74 13 45 61 .222 .312 .360 .672 90
1975 39 KCR 106 369 62 14 54 70 .199 .317 .375 .692 93
22 Y 22 Y 22 Y 2435 9833 2086 573 1559 1699 .256 .376 .509 .884 143


他にもウィリー・メイズの章で書いたウィリー・マッコービーやホアン・マリシャル、ブレーブスのエディ・マシューズ、レッドソックスのドワイト・エバンス、カブスのロン・サントやビリー・ウィリアムズらなどもいたんですけど、記事に書くほどのネタは無かったのでスルー。