特に理由はありませんが、1950年シーズンのMLBの年俸ランキングを作成しました。
当時はもちろんのことですがFA制度や本格的な代理人交渉も無く、今の日本プロ野球のように単年更新契約が主だった時代。さらに、現代と比べてベース年俸に対しオプションによるボーナスが占める割合も高く、最終的な選手の報酬が幾らになったのかは不明な部分が多いのも確か。ソースによっても数字が若干異なっていることも多く、情報の取捨選択には一苦労しました。
以下が私が調べた1950年シーズンMLB年俸ランキングとなりますが、とりあえず数字はベース年俸を採用しています。例えばスタン・ミュージアルのベース年俸は50,000ドルでしたが、オプション・ボーナスも含めると75,000ドルだったとのこと。
順位 | 選手名 |
年俸 |
チーム | 年齢 (プロ年数) |
1 | テッド・ウィリアムズ | 125,000 | BOS | 31歳 (9年) |
2 | ジョー・ディマジオ | 100,000 | NYY | 35歳 (12年) |
3 | ラルフ・カイナー | 65,000 | PIT | 27歳 (5年) |
4 | ルー・ブードロー | 62,000* | CLE | 32歳 (13年) |
5 | ハル・ニューハウザー | 55,000 | DET | 29歳 (12年) |
6 | スタン・ミュージアル | 50,000* | STL | 29歳 (9年) |
7 | ボブ・フェラー | 45,000 | CLE | 31歳 (12年) |
8 | トミー・ヘンリック | 40,000 | NYY | 37歳 (11年) |
9 | ジャッキー・ロビンソン | 35,000 | BRO | 31歳 (4年) |
ピー・ウィー・リース | 31歳 (8年) |
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ジョー・ゴードン | CLE | 35歳 (11年) |
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ジョージ・ケル |
DET |
27歳 (8年) |
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フィル・リズート |
NYY |
32歳 (7年) |
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ジョー・ペイジ | 32歳 (7年) |
・この時代の1ドルは現在の貨幣価値で10.8ドルに相当
・MLBプレーヤーの平均年俸は11,000ドル程度
・アメリカ国内の一般成人の平均年収は約3,000ドル前後
MLB全体トップは前年にMVPを受賞していたテッド・ウィリアムズ。ウィリアムズは1949年に歴代最多タイ・史上3人目となる年俸100,000ドルをゲットしていましたが(他は1947年のハンク・グリーンバーグと1949年のジョー・ディマジオ)、その記録を25%も更新することとになったわけですね。
ちなみに、1960年限りでの引退までウィリアムズの年俸が125,000ドルを超えることはなく、(諸説こそあるものの)カール・ヤストレムスキーが1971年に年俸167,000ドルを得るまでMLB最高記録として残りました。
2位は右足の故障と肺炎に苦しみたった76試合の出場に終わったジョー・ディマジオが前年から据え置きとなる年俸100,000ドル。ライバルのテッド・ウィリアムズから差を付けられらたものの、前年の成績や年齢、3位以下の数字を考えると破格の待遇。ここら辺は流石スーパースターと言ったとことろでしょうか。
そして、毎年のように最下位争いに加わるなど低迷していたパイレーツの観客動員数をNLで1・2位を争うレベルまでたった一人の力で引き上げていた若きラルフ・カイナーが3位に。そのカイナーの年俸は1949年の時点で若干26歳・MLB4年目にも関わらず50,000ドルに達していて、自己最多の54本塁打を放った1949年シーズン終了直後には一気に年俸100,000ドルまで大幅するのではとの噂もあったほど。ただ、カイナー本人がそこまでの好待遇を望まなかったため65,000ドルに落ち着いたわけ。
加えて、この時代はデッドボール時代ほどではないものの依然として監督年俸が高かった時代。例えば1949年から新たにヤンキースの監督なったケーシー・ステンゲルのベース年俸は35,000ドルで、初年度からワールドシリーズ優勝を果たしたことによりオプション・ボーナスは15,000ドルを追加で受け取とったとのこと。さらに、1950年シーズンもワールドシリーズ優勝を果たし1949年と同様に50,000ドルを稼ぎ出したらしく、1960年シーズンには年俸がオプション・ボーナスも含めて160,000ドルまで高騰したとの報道もありました。
そして、当時インディアンズの選手兼任監督を務めていたルー・ブードローの年俸を62,000ドルと記していますがその金額のうち選手としての報酬が35,000ドル、監督としての報酬が27,000ドルだったと本人は語っています。
黒人選手ではジャッキー・ロビンソンが35,000ドルでトップ。ただ、ここで取り上げておきたいのはそのロビンソンやロイ・キャンパネラ、ラリー・ドビーなどの黒人スター選手ではなくサチェル・ペイジ。
と言うのも、1948年~1949年にインディアンズでプレーしていたペイジは1949年に25,000ドルを受け取りましたが、ペイジ本人が自ら6,000ドル減となる19,000ドルでの契約を申し出たところインディアンズ側は拒否。結果として黒人選手のMLB入りによって落ち目だったニグロリーグのフィラデルフィア・スターズ(ニグロリーグ盛期には強豪チームだった)でプレーすることとなります。
しかしながら、43歳となり実力が衰えたと言ってもペイジの人気に大きな陰りは見えず、スターズでは1週間に平均で2,000ドルも稼ぎ出したとのこと(他のソースによると1登板辺りの報酬が800ドルだったようで、1週間に5~6試合プレーすることもあったそう)。スターズの試合(興行)がどの程度の期間行われたかは分かりませんが、週給ベースではMLBトッププレーヤーと変わらぬ報酬を得ていたことになりますね。
ちなみに、当時のスターズの監督は1948年までニグロリーグ最強球団カンザスシティ・モナークスのオーナーを務め後に野球殿堂入りも果たしたJ.L・ウィルキンソン。ペイジの好待遇もニグロリーグ最高クラスの興行師だったウィルキンソンの存在無しではありえなかったことでしょう。
さらに、これだけではありません。
ニグロリーグのシーズン終了(スターズの興行ツアー終了)後にウィルキンソンはペイジを目玉に西海岸とハワイ諸島を回る興行ツアーを企画。このツアーでペイジは45,000ドルもの大金を稼ぎ出したと報道されています。(しかしながら、あまりにも45,000ドルは高額すぎるのでペイジ個人の稼ぎではなくツアー全体での収益のことを指していた可能性もあり。)
つまり、1950年の年間を通してウィリアムズやディマジオに次ぐ金額を稼ぎ出したのはナショナルリーグNo.1スターのラルフ・カイナーや選手兼任監督のルー・ブードロー、全盛期を迎えていたスタン・ミュージアルではなくMLBから一時的に離れた43歳のサチェル・ペイジだったのかもしれません。