惜しくも実現しなかったレジェンド選手のヤンキース入団 Part 2


Pedro Martinez(1997年オフ)、Walter Johnson(1919年オフ)、Barry Bonds(1992年オフ)

皆さんには大して興味のない記事でしょうけど、ネタが揃っているので少なくともPart 3までやります。



Greg Maddux(1992年オフ)

Year Age Tm ERA G IP H HR BB SO ERA+ FIP WHIP BB9 SO9 SO/W
1990 24 CHC 3.46 35 237.0 242 11 71 144 119 3.15 1.321 2.7 5.5 2.03
1991 25 CHC 3.35 37 263.0 232 18 66 198 116 3.06 1.133 2.3 6.8 3.00
1992 26 CHC 2.18 35 268.0 201 7 70 199 166 2.58 1.011 2.4 6.7 2.84
1993 27 ATL 2.36 36 267.0 228 14 52 197 170 2.85 1.049 1.8 6.6 3.79

前回のPart 1で紹介したようにNYYがBarry Bondsを逃した1992年オフ、史上最高のポジションプレーヤーの1人と時を同じくして、史上最高のピッチャーの1人もFA市場に繰り出していました。

それがGreg Madduxです。

FA前最終年となる1992年シーズンは開幕からキャリアハイのパフォーマンスを見せ、7月にCHCから5年$27.5Mのエクステンションを提示されるもリジェクト(Maddux側は$32Mを希望)

そのまま勢いは衰えることなく、初のCYAに輝くなど理想的なタイミングでFAとなり、投手成績がリーグ下位に終わったNYYにとっては再建の軸としてプライオリティな存在に。

ただ、割かしあっさりとSFG入りが決まったBondsと比べ、若き日のScott Borasが代理人を務めるMadduxの争奪戦は捻りある展開に。

ます、シーズン途中に大型契約をオファーしたことから最有力と見做されていたCHGは、他の先発投手(Jose Guzman)と大型FA契約を結び、Maddux争奪戦から早々に撤退。

次にNYYがBondsへの提示内容に近い5年$34Mをオファーするも、Maddux本人が5年$37Mをカウンターとして要求。

Boras曰く、MadduxもBorasもNYYがカウンターを受け入れるだろうと確信しており、素直に受け入れれば入団を即決するつもりだったようですが、NYYのGene Michael GMは増額オファーを保留。

その間にMadduxの気持ちはATLに傾き、NYYの提示条件を下回る5年$28Mで契約合意に達しました。

契約合意の前にBorasから連絡を受けたNYYは5年$34Mのうち$9Mを契約金として支払う新条件(当時もアメリカは高金利・インフレ社会)を大急ぎでオファーするも時すでに遅し。(他の報道ではMadduxの希望通り5年$37Mを受け入れたとの話も。)

Madduxは1995年シーズンまで4年連続でCYAウィナーとなるわけですから、$3Mをケチった代償はあまりにも甚大でした。

ただ、MadduxがATL相手にディスカウント受け入れた最大の理由は「家族にとってアトランタよりニューヨークの方が生活・教育環境に優れているから」と報じられていますが、単に他球団からのオファーを引き上げるためにNYYを利用したのか、それとも本当に環境面を優先したのかは不明。


George Brett(1982年オフ)

Year Age Tm G PA H HR SB BB SO BA OBP SLG OPS OPS+
1980 27 KCR 117 515 175 24 15 58 22 .390 .454 .664 1.118 203
1981 28 KCR 89 379 109 6 14 27 23 .314 .361 .484 .846 145
1982 29 KCR 144 629 166 21 6 71 51 .301 .378 .505 .884 141
1983 30 KCR 123 525 144 25 0 57 39 .310 .385 .563 .947 158

地元上院議員からの脅迫を受け、MLBが嫌々設立を許したKCR。

本来なら弱小貧乏球団への道が約束されていたリーグの邪魔者を球界屈指の強豪チームへ引き上げた存在がGeorge Brettですが、このKCR最大のフランチャイズプレーヤーにもNYY移籍の可能性が芽生えた瞬間がありました。

Brettの活躍により好調だったKCRですが、1970年代の度重なる労使紛争と1981年のストライキを経て、1982年オフに入ると初代オーナーが身売りを念頭に置いたチーム所有権の一部売却に動き、フロントが不安定な状況に。

さらに、1980年のモンスターシーズン途中に5年$5Mの大型エクステンション契約を結んでいたBrettは、1982年シーズン開幕直前に契約期間10年の生涯契約を要求。

ただ、流石にKCRもその要求を受け入れず、反対にトレードの噂が流れる不穏な状況に。

そういった状況の中で、スキを狙うかのように1992年オフのウインターミーティングにてBrett獲得へ動いたのが、Steinbrenner率いるNYYでした。

当時の報道によると、Brettの対価としてNYYはレギュラーOFを1人(Ken Griffey Sr.Dave Collins)、38歳のGraig Nettles、プロスペクト数名を提示したようですが、当然ながらKCRの要求は高く、特にエースのRon Guidryを欲していた模様。

そのままトレード交渉は流れ、NYY入団ないし他球団移籍が実現することはなく、1984年シーズン開幕直後には本当に生涯契約を締結し、1985年のWS制覇を経てKCRで現役を終えました。

(よくよく考えれば別に”惜しく”はないよな。)

ちなみに、かの有名なパインタール事件はこの7ヵ月後に発生。


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Satchel Paige(1946年)

Year Age Tm Lg ERA G IP BB SO ERA+ FIP WHIP BB9 SO9 SO/W
1944 37 KCM NAL 1.10 16 98.1 27 105 313 1.40 0.905 2.5 9.6 3.89
1945 38 KCM NAL 4.67 9 44.1 15 43 88 1.78 1.286 3.0 8.7 2.87
1946 39 KCM NAL 1.29 8 35.0 5 32 323 1.18 0.829 1.3 8.2 6.40
1947 40 KCM NAL 2.37 5 19.0 2 18 206 1.10 1.105 0.9 8.5 9.00
1948 41 CLE AL 2.48 21 72.2 22 43 165 2.88 1.142 2.7 5.3 1.95

Jackie Robinsonと共にアメリカの歴史を塗り替えたBRO(ブルックリン・ドジャース)、Willie Maysの活躍により復活を遂げたNYG(ニューヨーク・ジャイアンツ)を尻目に、1955年のElston Howardまで黒人プレーヤーを許容せず、アメリカ社会における黒人の地位向上を妨害したレイシスト球団NYY。

その結果として1960年代に暗黒期を突入し、人種差別のツケを払わされることになるわけですが、Jackie Robinsonのカラーバリア破壊に先駆け、1946年にNYYが獲得に動いたとされる黒人プレーヤーがSatchel Paigeです。

当時のSatchel Paigeと言えば、ニグロリーグ最大のスーパースターとして黒人社会だけでなく全国的に有名な存在で、ニグロリーグのみならずDizzy DeanやBob Fellerとのバーンストーミングにより大金を稼ぎ出していた高給取り。

1947年9月のSporting Newsに掲載されたPaigeへのインタビュー記事によると、前年1946年にNYYからMLB契約オファーを受けたとのこと。ただ、当時のPaigeの年俸($25~30K)に匹敵する額ではなかったため、オファーを退けたと語っています。

もし、Joe DiMaggioの年俸が$50K未満だった時代に、40歳の先発投手へ数万ドルは割高な印象ですが、NYYのオファーを受けていればカラーバリアを破るのはPaigeだったはずで、WWⅡ以降の野球史が根底から覆っていたはず。

これまで取り上げてきたレジェンド選手の中で、個人的には最も悔やまれる案件です。

ただ、Paigeに妄想癖があったことは有名な話で、これだけのビッグニュースにもかかわらず、私が知る限り本案件を取り上げたメディアは先述のSporting Newsのみ。

正直なところ、Paigeの口から出たホラ話だった可能性が限りなく高いでしょう。

(これも別に”惜しく”ねぇな。)