4月19日、伝説的な剛速球投手として有名なスティーヴン・ダルコウスキーがコロナウイルスにより御年80歳で死去しました。
今週末はノーラン・ライアンのアマチュア&マイナーリーグ時代の奪三振記録について書こうかと思っていたのですが、今回のニュースを受け同じく数々の奪三振記録を残したダルコウスキーを代わりに取り上げようと考えた次第です。
しかしながら今回の記事の趣旨は、メジャーリーグでプレーする機会がなかったもののマイナーリーグでは数々の逸話を残し現役当時から生ける伝説的な存在であったダルコウスキーのエピソードを掘り下げるわけではなく、ダルコウスキーが現役時代に何マイルの速球を投げていたのか&他の投手よりも速かったのか詳しく考察するものでもありません。今回取り上げるのはダルコウスキーの登板記録(Game Log)であり、(私が自分で調べて見つけ出せた限りとはなりますが)ダルコウスキーの登板記録を高校時代から現役最終年度までまとめました。誰が得するのか分からないような内容ですが、モノ好きだけが楽しんでくれればと思います。
あとダルコウスキーの球速についてですけど、1950年代後半~1960年代前半という時代に身長がたった5フィート11インチしかなく野球IQの非常に低いダルコウスキーが100マイル台中盤の速球を投げることができた可能性なんてものは0なわけで、100マイルですら可能性は低いと考えるのが自然だと思います。
目次
高校時代
コネチカット州のニューブリテンで生まれ育ったダルコウスキーは地元ニューブリテン高校で野球とアメリカンフットボールをプレー。アメリカンフットボールではクォーターバックを務めパスヤード数の同高校記録を更新し、州のオールスターチームにも2度選ばれるスター選手。
そして肝心の野球では1955年春(当時高校2年生、アメリカは基本的に小5中3高4年生なので日本の1年生に当たる)に先発投手として高校野球デビュー。そのデビュー戦では7安打を許したものの、結果として高校最終登板までそれ以上安打を許すことはなかったとのこと。
以下、高校通算成績
- 311奪三振
- 181与四球
- ノーヒットノーラン:2回
- 1安打完投:4回
- 2安打完投:6回
1956年(3年生)
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 |
ー | 9.0? | 1 | 20 | ー |
1956年(3年生)のシーズン序盤に隣町のハートフォード公立学校(現在ではコネチカット州最大の公立高校)と対戦。この試合でダルコウスキーは20奪三振&1失点の好投を見せたものの、ハートフォードの先発Pete Salaが17奪三振&無失点というダルコウスキーに劣らないパフォーマンスを見せたためチームは敗退。ソースにイニング数の記述がなく、高校の試合なので7イニング制だと思ったんですけど、他の高校時代の登板記録を見る限りでは当時はまだ9イニング制だったようです、たぶん。あとは延長戦の有無も不明。
そして驚くべき点はこの試合後にも更に2試合続けて(=計3試合連続で)1試合20奪三振を記録していること。ただ、その2試合の詳しい投球内容は不明で3試合目の四球数が13個だったことしか分かりませんでした。
また、シーズン最終戦は13三振しか奪えなかったとのこと。
1956年(サマーリーグ)
シーズン終了後にサマーリーグでプレー。ダルコウスキーの話によると「キャッチャーとキャッチボールをしているかのようだった。」とのこと。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
ー | 9.0? | 0 | 26 | ー | 1 |
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
ー | 9.0? | 0 | 21 | 5 | 0 |
サマーリーグの2度目の先発において26奪三振&1安打を記録しチームは8-0で勝利。サマーリーグなので9イニング制だったようですね。また、その4日後にも先発すると21奪三振&5与四球でノーヒットノーランを達成しています。
加えてその1週間後にはノーヒッターを達成(四球と暴投により1失点)。さらにその次の先発では1安打完封を記録。(共に奪三振等は不明。)
1957年(4年生)
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
4/16 | 9.0? | 0 | 20 | ー | 0 |
高校最終年度のシーズン開幕戦(4月16日)、ダルコウスキーは体調不良に陥っていたものの20奪三振(四球数は不明)でノーヒットノーランを達成。その1週間後のシーズン2度目の登板でも同じくノーヒットノーランを達成しています。(シーズン3試合目の登板では2ランホームランを許すなど登板内容は良くなかったよう。)
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 |
ー | 9.0? | 0 | 24 |
与四球 | 被安打 | 投球数 | |
ー | 4 | 123 |
シーズン4度目の登板ではコネチカット州記録となる1試合24奪三振を記録。また、この試合で何故か投球数がカウントされおり、計123球を投げたようです。
マイナーリーグ時代
1957年(17~18歳)
当時はドラフトが無かったためオリオールズと4000ドルで契約。(表向きの契約金は4000ドルだったものの、ボーナスなども含めるとその10倍程度をダルコウスキーは受け取ったらしい。)
ダルコウスキーがプレーしたD-クラス(ショートシーズン)は当時のマイナーリーグ最低階級なので、現在のルーキーリーグみたいなもと考えてください。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
7/4 | 9.0? | 6? | 15 | 12? | 3 |
ダルコウスキーが15奪三振・被安打3を記録したことは確か。ただ、対戦相手のジャクソンシティ・フィリーズが6得点・12四球・11盗塁を記録したと書かれているのですが、ダルコウスキーがこの試合で完投したかは不明。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8/13 | ー | 7? | 11~ | 5~ | 0 |
5回1死時点で11奪三振を記録していたものの5者連続四球と2つの暴投を許しチームは3-7で敗戦。ただ、ダルコウスキーは完投したかったようです。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8/17 | ー | 9? | ー | 21 | ー |
21四球・6暴投・6後逸を許しチームは7-9で敗戦。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8/21 | 9.0 | 8 | 24 | 18 | 0 |
恐らくダルコウスキーの登板記録の中でも最も有名な試合。24三振を奪いノーヒッターまで達成したものの、18四球・6暴投を許し8失点の大炎上。
ちなみに、同時代のDクラスにおいては1952年にRon Necciaiが9回27奪三振を記録。また、1941年にもHooks Iottが9回25奪三振を記録しているので、ダルコウスキーがこの試合で奪三振の何か新たな記録を作ったわけではありません。
(なんか「ダルコウスキーはこの試合において7-5で勝利を収めた」といった記述もスポーティング・ニュースの1958年の記事で見つけたんですけど、現在では他の多くのメディアが上表の試合結果を記述しています。)
1958年(18~19歳)
D-クラスから昇格してA~Cクラスでプレー。(当時のマイナーリーグはAAA、AA、A、B、C、D、D-クラスの7階級制。)クラスまで昇級したとは言っても、上記表を見てもらえば分かるように制球難は全く改善されなかったんですけどね。
この年の記事を漁っているとすでに剛腕投手としてそこそこ有名になっていたようで、「Strikes ‘em out or Walks ‘em」というニックネームが付いていました。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
4/21 | 5.0~5.2 | 6 | 10 | 12 | 3 |
(この年はA~Cクラスでプレーしましたが、開幕はAクラスで迎えています。)
5回終了時点でノーヒットに抑えていたものの、6回に入ると一気に崩れ6失点・4四球・単打3本・エラー・ボークを許しイニング途中で降板。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
7/22 | 5.0~5.2 | ー | 12 | 17 | 3 |
(この時点ではすでにCクラスへ降格。)
チームは9-8で勝利を収めましたが、ダルコウスキーは6回途中で降板。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8/24 | ー | 3? | 17 | 13 | 3 |
ダルコウスキーが完投したかは分かりませんが、チームは6-3で勝利を収めたとのこと。また、この時点でCクラスにおいて55.1イニング・114奪三振・99四球を記録していたようです。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 |
ー | ー | ー | 17? |
与四球 | 被安打 | 投球数 | |
16? | ー | 283? |
「High Heat」という書籍に「1958年の試合で計283球を投げ17奪三振・16四球を記録した。」との記述があるのですが、283球と言えば1962年にも同様の球数を記録していて、それと混同している可能性が大。
1959年(19~20歳)
開幕をCクラスで迎えると、僅かではあるものの前年度より投球内容が改善。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
5/17 | 9.0 | 0 | 21 | 8 | 0 |
プロ入り後初となるノーヒットノーランを達成。21奪三振はAberdennが所属するノーザン・リーグのリーグ記録を20年ぶりに更新する新記録。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
5/23 | 4.0~4.2 | 2~4 | 9 | 11 | 1 |
ノーヒットノーランを達成した前回登板から一転またもや制球難に陥り5回途中で降板。チームも2-4で敗れましたが、ダルコウスキーの失点については2ランHR(唯一の被安打)しか記述がなく正確な失点数は不明。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
5/28 | ー | ー | 14 | 12 | 5 |
イニング及び失点数が不明ですが、チームは勝利を収めたとのこと。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
6/7 | 4.0 | ー | ー | 12 | 2 |
(5月28日の登板後にDクラスへ降格。)
5回無死満塁のピンチで降板。12四球に加え暴投も4つ記録。また、暴投が主審のマスクに直撃し試合途中で主審が交代することに。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
6/11 | 3.0~3.2 | ー | ー | 10 | 0 |
被っとこそ許さなかったもののまたもや四球を連発し4回途中満塁のピンチで降板。この試合と7日の試合で合わせて13奪三振を記録したようですが、各試合ごとの奪三振数は不明。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
7/22 | 2.0 | 5 | 6 | 12 | 0 |
敗戦処理としてリリーフ登板。2イニングでヒットを1本も許さずアウトの全てを三振で奪いましたが、12四球を叩き出し5失点。
また、敗戦処理の役目を果たせなかったダルコウスキーに代わり本来は外野手のRonald Piotrowskiが2イニング登板し3失点・4奪三振・1四球・3被安打を記録しています。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8月 | 4.0 | ー | ー | 14 | ー |
4イニングで14四球を叩き出していますが、チームは最終的に5-17で敗れているのでダルコウスキーの失点数も相当だったはず。
1960年(20~21歳)
前年まではシーズン成績も不確かな部分が多かったわけですが、この年からはシーズン成績も非常に正確なものに。
シーズン170人イニング登板は自己ベストとなりました。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
6/21 | 9.0 | 8 | 19 | 9~ | 4 |
8回終了時点で3失点・9四球を記録しチームも4-3でリード。9回に入り満塁のピンチに陥ったもののその時点でカリフォルニアリーグ記録に並ぶ19奪三振を奪い迎えた打者は後にアトランタ・ブレーブスを14度の地区優勝に導く伝説的名将ボビー・コックス(当時は19歳・1年目)。
ダルコウスキーはそのコックス(この打席までにダルコウスキー相手に4打席連続三振)を2ストライクまで追い込み20奪三振&新記録達成かと思われましたが、コックスが劇的な場外逆転満塁ホームランを放ちダルコウスキーは敗戦投手に。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
7/4 | 9.0 | 2 | 10 | 12 | 1 |
許したヒットは初回のシングルのみ。奪三振数は大したことなかったものの、四球数も12個に抑え?、キャリア初となるシーズン5勝目を上げました。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8/21 | 5.0 | ー | 13 | 13 | ー |
5イニングで13奪三振・13与四球を記録したと書かれていたのですが、記述が曖昧だったのでもしかすれば6回以降も引き続き投げていたかもしれません。
秋季リーグ
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
11/16 | 4.2 | ー | 8 | 5 | ー |
レギュラーシーズンではなく秋季リーグにおけるリリーフ登板の記録。5与四球だけだなく暴投も3つ記録。
1961年(21~22歳)
Bクラスへ昇格したものの103イニングで117失点を記録。パフォーマンスが良くなかったためかリーグ・階級が変わったためか登板記録もほとんど見つかりませんでした。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
6/14 | 1.0 | ー | ー | 5 | ー |
敗戦処理として8回に1イニングだけ登板すると四球を5つも与え、この時点でのシーズン与四球は49イニングに対し102個に。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
6/29 | 9.0 | 0 | 12 | 6 | 1 |
この試合前時点でシーズン成績は54回・0勝8敗・84奪三振・119四球と壊滅的でしたが、1安打完封の好投を見せシーズン初勝利。
というか14日時点で49回・102四球、29日試合前時点で54回・119四球ということは、その約2週間の間に5回・17与四球を記録していたということになりますね。
1962年(22~23歳)
名将アール・ウィーバーの指導によりコントロールが大幅に改善されると、プロ入り後初めてまともなシーズン成績を記録。まあ、ウィーバーとは1959年にもクラスCで一緒になってたんですけどね。
その時にちゃんと指導しとけよ。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
5/7 | 6.0~7.0 | ー | 15 | 7 | 7 |
7回に代打を出されて交代したと書かれていたのですが、それが表裏どちらの攻撃だったのかは不明。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 |
5/20 | 4.2 | 2 | ー |
与四球 | 被安打 | 投球数 | |
9 | 3 | 121 |
121球を投げ5回2死で降板。奪三振数は不明。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
7/9 | 9.0 | 0 | 11 | 0 | 5 |
とうとうキャリアで初めて無四球完投を記録。この時点で4連勝&23イニング連続無失点を継続していたようで、この時期が彼の野球キャリアの全盛期だったと言えるでしょう。
また、7月28日の記事によると開幕から21.2イニングで31奪三振・38与四球を記録したものの、その後は61イニングで72奪三振・31与四球と別人のような数字を残していたようです。また、上記の4連勝は全て完投勝利によるもので計43奪三振に対し与四球はたった11個だったとのこと。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
7/25 | 9.0 | 0 | 9 | 4 | ー |
これがシーズン4度目の完封勝利。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
7/29 | 3.0~3.2 | 6 | 5 | 1 | 9 |
四球こそたった1個しか許さなかったものの打ち込まれ4回途中で降板。この時点でシーズン防御率2.80はリーグ3位の数字でした。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8/20 | 9.0 | 0 | 8 | ー | 3 |
この前回登板でも完封勝利を記録していて、20日で完封勝利はシーズン6度目。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8/25 | 7.0 | 7 | ー | ー | ー |
詳しい投球内容は不明ですが7イニングで7失点と炎上。最優秀防御率のタイトル争いでもリーグ7位まで後退することとなりました。
あとシーズン終了後にウインターリーグに参加していたのですが、詳しい登板記録は見つからず。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 |
ー | ー | ー | 27 |
与四球 | 被安打 | 投球数 | |
16 | ー | 283 |
延長戦において計283球を投げ27奪三振・16与四球を記録したと言われていますが、詳細な日付や対戦相手は不明・
1963年(23~24歳)
春季キャンプで好投するも肘を痛め出遅れ。復帰後も肘への懸念からリリーフとして起用されました。
春季キャンプ
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
3/22 | 1.2 | 0 | ー | ー | ー |
春季キャンプのオープン戦でヤンキース相手に登板。1.2回を無失点で抑えたものの左肘を痛め降板しましたが、肘の痛み・故障は軽いものだと診断されました。
その後もオープン戦には2度登板。上記登板も合わせて計3試合で7.2回・11奪三振・5四球・1被安打とMLB昇格を期待させる好投を見せましたが、シーズン開幕6日前に肘神経への更なるダメージが見つかり約2週間の安静が必要に。
この時の故障によりダルコウスキーの球威は大きく劣化し、結果としてMLBデビューへの道が断ち切られてしまうこととなります。
レギュラーシーズン
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
5/28 | 2.0 | 0 | 1 | 0 | 0 |
AAAで復帰しますが、AAAでは全登板がリリーフ起用。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
6/7 | 2.0 | 0 | 3 | 1 | 0 |
敗戦処理としての起用。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
6/19 | 0.1 | 0 | 0 | 0 | 0 |
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
6/29 | 3.1 | 1 | 2 | 4 | 3 |
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
7/7 | 3.0 | 0 | ー | ー | 1 |
AAに降格。上記試合はリリーフ登板。
1964年(24~25歳)
与四球率こそ自己ベストの数字を残したものの前年の故障から球威は復活せず、更にAAAでも結果を残せなかったためまたもやMLBデビューを逃しました。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8/14 | ー | ー | 12? | ー | 3 |
イニング数や失点数は不明ですが、プレーボールから最初に対戦した12人のバッター全員から三振を奪ったとのこと。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
8/28 | 9.0? | 6? | 18 | 12 | 3 |
チームは1-6で敗れたようですが、ダルコウスキーが完投したかは不明。久々にかつてのダルコウスキーらしい登板記録を見ましたが、悪く言えばこれが最後の輝き。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 | 与四球 | 被安打 |
9/5 | 5.0 | 4 | ー | 4 | 6 |
投球内容なパッとしなかったものの、バッターとしてキャリア初となる満塁ホームランを放ち勝ち投手に。
1965年(25~26歳)
7月16日にオリオールズからリリースを受けエンゼルスと新たにマイナー契約。しかしながら、翌年の5月にエンゼルスからもリリースを受けそのまま引退したため、1965年がダルコウスキーの野球キャリア最終シーズンとなりました。
日付 | イニング | 失点 | 奪三振 |
8/12 | ー | ー | 6 |
与四球 | 被安打 | 投球数 | |
2 | ー | 124 |
1965年はすでに注目度が低く登板内容も見つかったのはこれだけ。
コメント
変化球は何を投げていたんでしょうか?
こうしてみたらチャップマンはやっぱりすごいですね
変化球はスライダーを習得していましたが、投球割合のほとんどはフォーシームでした。
体格から考えて、ビリーワグナーより若干遅かったという感じではないでしょうか?
97~98マイルくらいは出ていたかも知れませんね。
球界最高球速の推移が線形的だと仮定すれば、彼の現役時代の推定球界最高球速は97.5マイル程度となりますから、”97~98マイル”というのは現実的な見積りだと思います。